小説置き場

第17話「観測施設消失届」

2,827文字 約6分

星流会の第三観測施設、通称「観測点γ」は、長野県北部の山間部、標高千六百メートルの稜線に建っている。最寄りのコンビニまで車で四十分。携帯の電波すら届かない。

 その場所で、観測技術者の戸川英輔は三十年間、宇宙からの信号を待ち続けていた。

 観測点γの役割は、地球外知性体からの通信を傍受・解析すること。SETIの民間版とも言えるが、星流会が運用する施設は「見つかったらどうするか」まで想定している。見つかったときの絶望も、歓喜も、その先の対処も、すべてマニュアルに記されていた。

 設備はシンプルだった。直径十二メートルのパラボラアンテナ。受信装置。解析用コンピュータ。記録装置。スタッフは戸川一人。三十年前は三人いたが、予算が削られ続けた結果、戸川だけが残った。残ったというより、戸川だけが残りたがった。

 五月十四日。水曜日。午前五時四十分、目が覚めた。

 山の稜線に朝日がかかる前のわずかな時間が好きだった。空がまだ藍色で、パラボラアンテナのシルエットが空に溶けている。湯を沸かし、インスタントの味噌汁を作り、昨日の残りの飯を温めた。

 五十八歳の体は冷えやすい。朝食は温かいものがいい。妻はいない。子供もいない。山を降りるのは月に一度、食料の買い出しのときだけだ。それでも戸川は自分の暮らしを不幸だと思ったことがなかった。待つべき信号がある限り、人生には意味があった。

 午前六時。起床記録。午前七時。アンテナの方向調整。本日の観測対象座標に合わせる。午前八時。受信装置の起動確認とキャリブレーション。午前九時。記録装置の確認。昨夜の受信ログの確認。

 三十年間、毎日この手順を繰り返してきた。

 受信ログは毎日確認する。電波ノイズ。宇宙背景放射。既知の人工衛星からの信号。パルサーの周期信号。全て既知のパターン。未知の信号は三十年間、一度も検出されていなかった。一度も。

 午前九時。記録装置を確認した。昨夜の受信ログを順に追う。

 ノイズ。ノイズ。ノイズ。既知のパターン。既知のパターン。既知の——。

 戸川の指が止まった。

 午前二時三十七分の受信ログ。波形が違った。三十年間、毎日ログを見てきた人間だけが気づく差異。パルサーでもない。人工衛星でもない。宇宙背景放射でもない。

 波形のパターンが規則的すぎた。自然現象はランダムだ。人工信号は規則的だ。この波形は規則的で、しかも観測点γのアンテナの指向方向と完全に一致していた。

 戸川は椅子に座り直した。落ち着け。三十年のうち、何度か「これは」と思ったことがある。全て誤検知だった。地上の電波の反射。航空機のトランスポンダ。人工衛星の異常信号。

 検証手順がある。第一段階。同じ時刻の他の受信施設のログと照合する。戸川はデータを本部に送信した。衛星回線。通信には十五分のラグがある。

 返信が来た。

 「α・β共に該当時刻に同波形を検出。三点一致。指向方向も一致。至急追加観測を実施してください」

 三点一致。三つの観測施設が、同じ時刻に、同じ波形を、同じ方向から受信した。

 第二段階。追加観測。戸川はアンテナの方向を昨夜の座標に固定し、受信装置の感度を最大にした。記録装置を起動。

 午前十時十五分。受信開始。

 ノイズ。三十分。一時間。二時間。何も来ない。

 午後一時。信号が来た。

 リアルタイムで。モニターに波形が表示された。昨夜と同じパターン。規則的な波形。だが昨夜よりも強い。感度を落としても拾えるほどの強度だった。

 戸川は本部に報告した。

「観測点γより報告。対象座標から再度信号を受信中。強度は昨夜の約十二倍。パターンは同一」

 返信を待つ間、波形を解析した。規則的なパターン。短い信号と長い信号の組み合わせ。モールス信号のようなものだが、モールスではない。素数の列でもない。

 もっと複雑だ。だが構造がある。意味がある。何かを伝えようとしている。

 三十年間待った信号が、目の前にある。戸川は椅子の背もたれに体を預けた。手が震えていた。震えていることに気づいて、両手を膝の上に置いた。

 ああ、もっと長く生きたかったな、と思った。この信号の意味を解き明かすには、三十年では足りなかった。

 解析手順書を開いた。星流会が策定した「未知信号受信時の行動規範」。ファイルには三十年分の埃が積もっていた。

 第一項、信号を記録すること。している。第二項、信号に応答しないこと。送信禁止。応答すれば位置を特定される。第三項、本部の指示を待つこと。

 本部からの返信。「分析チーム派遣まで二十四時間。受信を継続し、送信は行わないこと。繰り返す。送信禁止」

 午後三時。信号は続いていた。強度がさらに上がっている。昨夜の三十倍。

 そしてパターンが変わった。新しいパターン。前のパターンを「前提」にしているような構造。会話のように。一方的な送信ではなく、応答を待っている。

 相手は、こちらが受信していることを知っている。

 午後五時。信号の強度が百倍になった。アンテナの受信装置が過負荷の警告を出した。午後六時。施設の電源が不安定になった。照明がちらつく。午後七時。窓の外が白くなった。

 五月の午後七時。まだ空は明るいはずだ。だが窓の外は夕暮れではなかった。白い、均質な光。霧ではない。施設の周囲が白い光に包まれている。

 受信装置のモニターを見た。規則的なパターンが消え、代わりに一つの連続した信号。途切れない。一定の周波数。一定の強度。単一のメッセージ。

 戸川は数値に変換した。

 その数値は観測点γの座標だった。緯度。経度。標高。小数点以下八桁まで正確に。

 こちらの位置を、完全に特定されている。

 戸川は本部に最後の報告を送信した。

「観測点γより最終報告。信号源が本施設の座標を把握。施設周囲に光学異常が発生。——受信しました。三十年間の観測で、ようやく受信しました」

 白い光が壁を透過してきた。戸川は椅子に座り直した。記録装置が稼働していることを確認した。

 データは衛星経由で本部に転送されている。自分がいなくなっても、データは残る。

 光が部屋を満たした。

 戸川は目を閉じなかった。三十年間見てきたモニターの波形が、最後に見えた景色だった。

 光が消えたとき、観測点γはなかった。建物が。アンテナが。コンピュータが。三十年分の記録装置が。

 戸川のマグカップが。本棚の文庫本が。壁に貼った、あと半月で終わるカレンダーが。

 山の中腹に、円形の更地だけが残った。直径五十メートル。草一本生えていない平坦な地面。

 本部に転送されたデータは、光が施設を包む直前で途切れていた。解析チームは六ヶ月をかけて解読した。結論は出なかった。分かったのは一つだけ。

 信号は、観測点γが三十年間送り続けた観測レポートへの——応答だった。

  殉職報告書 第17号   氏名:戸川英輔(58)   所属:星流会 第三観測施設   死因:宇宙由来信号源との接触による施設消失   備考:遺体なし。施設跡地からは一切の残留物検出されず。      観測レポートは三十年分、本部に保管されている。      応答した相手が何者かは、いまだ不明