門脇誠司は夕方四時に起きる。カーテンの隙間から差し込む西日が目覚ましの代わりだった。四十五歳の体は夜型の生活に完全に順応しており、朝日を見ることはほとんどない。
起き上がると台所で米を研ぎ、味噌汁を作り、焼き魚と漬物で夕食を摂る。門脇にとってはこれが朝食だ。食べながらテーブルの上に広げた巡回記録ノートを確認する。昨夜の記録に書き漏らしがないか、一項目ずつ指で追う。七年間続けている習慣だった。
霞崎区の商業ビル「KSタワー」で夜間警備を担当して七年になる。地上十八階、地下二階、テナント数四十二。裏の世界で「滞留区」と呼ばれる霞崎区の中心に建つこのビルは、匿名の情報ネットワークが根を張り、表と裏の境界が薄い土地にある。
門脇がそうした事情を詳しく理解しているわけではない。だが七年もいれば、普通のビルではないことくらいは肌で分かる。
夜勤は午後十時から翌朝六時まで。三十分ごとに各階を巡回し、防災センターに戻って監視モニターを確認する。その繰り返しだ。退屈な仕事だと人は言うが、門脇は退屈だと思ったことがない。巡回中の足音がビルの静寂に響くとき、十八階分の空間が自分の手の中にあるという感覚がある。その感覚が好きだった。
ルールが三つある。口頭でのみ伝えられるもので、マニュアルには載っていない。一つ、夜間に異音がしても十二階より上には調べに行くな。二つ、十三階の非常灯が消えていても交換に行くな、翌朝の日勤に引き継げ。三つ、地下二階で影が動いても目を合わせるな。
門脇がこのビルに配属されたとき、前任の飯島がこの三つだけを教えた。「理由は聞くな。守れ」。飯島は三ヶ月後に退職した。理由は聞かなかった。
門脇はルールを守った。七年間、一度も破らなかった。十三階の非常灯は月に二、三回消えるが翌朝には戻っている。地下二階の影は週に一度ほどモニターに映るが、モニター越しに見ている分には何も起きない。
十二階より上の異音は月に一回、重い物を引きずるような音がするが、巡回を十一階で止めて引き返せばそれで終わる。ルールを守ることが門脇の仕事であり、ルールの理由を知ることは仕事ではなかった。
今夜も同じはずだった。午後十一時、最初の巡回。一階から順に上がる。エントランス、異常なし。二階から五階、テナントの施錠を確認。
六階の法律事務所の前で足を止めた。明かりがついている。営業時間は午後八時まで、それ以降の残業には防災センターへの届け出が必要だが、今夜の届け出はない。
ガラス扉の向こうに人影が見えた。デスクに座ってパソコンの画面に向かっている女性。三十代くらい、スーツ姿。画面の青白い光に照らされた横顔は疲れていたが、キーボードを叩く指に迷いがなかった。
急ぎの仕事なのだろう。門脇はドアを叩いた。
「すみません、警備の門脇です。残業の届け出が出ていないんですが」
「あ、すみません。急ぎの書類があって、あと一時間くらいで」
「届け出をお願いします。明日の朝にでも」
「分かりました。すみません」
門脇は巡回を続けた。七階から十一階、異常なし。十一階で折り返す。十二階には行かない。ルール通り。防災センターに戻り、モニターを確認した。六階、女性がまだ仕事をしている。十三階、非常灯が消えていた。
赤外線モードに切り替えて十三階の廊下を見た。壁に沿って黒い染みのようなものが広がっている。水漏れの跡ではない。形が動いていた。ゆっくりと壁を這うように、下に向かって。
門脇はモニターから目を離さなかった。十二階の廊下に染みが降り、壁から剥がれるように厚みを増していく。二次元の染みが三次元の存在になろうとしている。
十一階。十階。九階。降りてきている。七年間で一度もなかったことだ。あの染みは十三階に留まるものだと思っていた。下に降りてくるとは聞いていないし、想定もしていなかった。
八階、七階。門脇は立ち上がった。六階に人がいる。怪異のことを何も知らない一般人が、急ぎの書類に向かっている。
無線機を取って日勤の管理者の緊急連絡先を呼んだ。呼び出し音が鳴り、応答がなかった。もう一度。三度目。応答なし。モニターを見ると、黒い染みは七階の天井まで降りていた。
門脇は防災センターを出た。階段を使って一階から六階まで駆け上がった。四十五歳の体は、巡回で鍛えられた脚のおかげで六階分の階段を苦にしなかった。法律事務所のガラス扉を開けた。
「すみません、ビルの設備点検で一時的に退避をお願いしたいのですが」
「え、今ですか?」
「はい、今すぐ。申し訳ありません」
門脇の声が硬かったのだろう。女性はパソコンを閉じて立ち上がった。「荷物だけ」と言いかけたのを、門脇は「後で取りに来てください」と遮った。廊下に出た瞬間、天井に染みがあることに気づいた。六階まで降りてきていた。コンクリートの表面に黒い染みが広がり、じわじわと人型に近づいている。
門脇は女性の前に立った。染みが見えないように、自分の背中で視界を塞いだ。「こちらです。階段から降りてください」。
女性が門脇の横を通り過ぎ、階段の扉を開けた。その瞬間、天井から染みが落ちた。
黒い液体のようなものが門脇の肩に触れた。冷たかった。冬の水よりも深い冷たさで、骨の芯に染み込んでくる。
肩から首へ、背中へ、腕へと冷たさが広がっていく。足が動かなくなった。声が出なくなった。体の内側から温度が奪われていく感覚があった。
視界の端で、女性が階段を降りていくのが見えた。振り返っていない。門脇に何が起きているか気づいていない。それでいい、と門脇は思った。
七年間ルールを守ってきた。今夜初めて破った。破ったのではない。ルールが想定していない状況だった。三つのルールは門脇自身を守るためのものであって、他人を守るためのルールはなかった。だから門脇は自分で作った。四つ目のルール。六階に人がいたら、助けに行く。
冷たさが全身に広がっていく中で、門脇は朝の味噌汁の匂いを思い出していた。今日は何の味噌汁だったか。豆腐とわかめだ。明日の朝も味噌汁を作るつもりだった。明日は大根にしようと思っていた。
もう少し長く、この仕事を続けたかった。退屈だと人は言うが、門脇にはそうではなかった。十八階分の静寂を守る仕事が好きだった。
門脇は立ったまま動かなくなった。目を開けていた。最後まで。目を閉じたら暗くなる。暗くなったら終わる。
目が閉じた。
翌朝六時、日勤の佐藤が六階の廊下で門脇を発見した。直立不動の姿勢で立っていた。体温は完全に失われ、表面に薄い霜が降りていた。十月の室内で。門脇の顔は穏やかだった。
防災センターのモニター録画を確認すると、門脇が女性を避難させ、天井から黒い何かが落ちてきて、門脇が立ちふさがった一部始終が記録されていた。女性はエントランスの映像に映っており、無事に外に出ていた。
門脇の制服のポケットから巡回記録用のノートが見つかった。最後のページに走り書き。「六階に人あり。避難誘導実施。ルール外の事態」。いつもの丁寧な字ではなく、階段を駆け上がる前に急いで書いたのだろう、乱れた筆跡だった。
殉職報告書 第16号 氏名:門脇誠司(45) 所属:民間委託警備員(霞崎区KSタワー担当) 死因:怪異接触による体温喪失 備考:避難誘導対象の一般人は無傷。 後任の警備員には、ルールが四つになったことを伝達すること。 四つ目の内容は門脇のノートに記載なし。佐藤が録画を見て理解した。 「人がいたら、助けに行け」