柳瀬朋美の朝は、コーヒーを淹れるところから始まる。豆はいつも同じ銘柄で、浅煎りのグアテマラ。ドリッパーにフィルターを置き、挽いた粉を入れ、細い湯を回しながら注ぐ。一杯分が落ちきるまでの三分間が、柳瀬にとっての瞑想のような時間だった。
三十六歳。一人暮らし。朝食はトーストと目玉焼きとコーヒー。トーストはいつも六枚切りで、焼き加減は表面がうっすら茶色くなる程度。目玉焼きには塩だけ振る。テレビはつけない。静かな朝が好きだ。
窓の外は十月の曇り空で、欅並木が少しだけ色づき始めている。通りを歩く人の姿はまだ少ない。今日もいつも通り法務課に行って、死んだ人間の書類を整える。
特務管理局法務課に十一年。柳瀬の仕事は、裏の世界で「消えた」人間の戸籍を法的に処理することだった。異界に取り込まれた者、怪異に同化した者、時間の歪みに飲まれた者、封印と共に埋められた者。
この世界から物理的に存在しなくなった人間を、法律の上でも存在しないことにする。死亡届を作成し、死因には「事故死」「病死」「不詳」のいずれかを記入する。「異界消失」や「怪異化」は死因欄の選択肢にない。遺体のない死亡届には特管局長名義の「死亡確認書」を添付する。それで法的な処理は完了する。
柳瀬はこの仕事を嫌いではなかった。消えた人間の最後の書類を丁寧に整えることには、ある種の敬意があると思っていた。誰も知らない死を、誰も読まない書類の上でだけは正確に記録する。それは無意味かもしれないが、無価値ではないと柳瀬は信じていた。
十一年間、一件ごとに背筋を伸ばして書類に向かってきた。名前の漢字を一画ずつ確認し、日付の数字を二度読みし、死因の表現が遺族の目に触れても耐えうるものかを考える。入力ミスは一度もない。
午前八時五十分。オフィスに着き、ロッカーに鞄を入れ、パソコンを立ち上げた。給湯室でコーヒーを淹れ、マグカップをデスクに置いた。いつものマグカップ。白地に青い花の模様。去年の誕生日に同僚の高橋がくれたもので、「柳瀬さんっぽい」と言って渡してくれた。確かにぽいな、と柳瀬自身も思った。
データベースを開く。未処理の案件を確認する。
三件。
一件目。塚田義明。四十九歳。死因:事故死。処理日:本日。二件目。手島清。六十七歳。死因:不詳。処理日:本日。
三件目。柳瀬朋美。三十六歳。死因:不詳。処理日:本日。
柳瀬はマグカップに伸ばしかけた手を止めた。指先が宙で静止した。画面の明朝体が、蛍光灯の光の下で妙にくっきりと見えた。
自分の名前がデータベースに表示されている。自分の年齢、自分の死因、今日の日付。十一年間、他人の名前をこの画面で見てきた。今朝だけはそこに自分の名前がある。
文字の書体も、フォントサイズも、行間も、他の二件と寸分違わない。それがかえって現実味を帯びていた。誰かの入力ミスだろうか。だがこのデータベースへの入力権限を持つのは柳瀬だけで、他の職員にはアクセスすらできない。柳瀬は三件目のレコードの詳細を開いた。
死亡届の提出者欄に、「内閣府特務管理局法務課 柳瀬朋美」と記されていた。自分が提出者になっている。自分の死亡届を、自分が提出した。
提出日時は2025年10月23日午前9時12分。今日は10月23日で、現在時刻は午前9時07分。五分後だった。
柳瀬は椅子の背もたれに体を預けた。心臓の鼓動が速くなっているのが分かる。だが十一年間、異常な死亡記録と向き合い続けてきた職業的な冷静さが、パニックを押し留めていた。備考欄を読んだ。「本届は未来時点の法務課より遡及提出。時間異常案件TM-2025-0847に基づく。処理担当者の時間軸上の存在が10月23日09:12を以て終了するため、当該時点の管理局が事前処理として提出」。
未来の管理局が、柳瀬の死亡届を過去に遡って提出した。時間異常案件。柳瀬の存在が今日の午前9時12分に終了する。
柳瀬はこの種の案件を知っていた。過去に三件、同様の遡及提出を処理したことがある。時間の流れに矛盾が生じたとき、未来から情報が送られてくることがある。送られてきた情報は変えられない。変えようとすれば時間の矛盾が拡大し、周囲に被害が及ぶ。柳瀬はそれを三件分の書類で学んでいた。
時計を見た。9時09分。残り三分。逃げるという選択肢が一瞬だけ頭をよぎったが、すぐに消えた。逃げても死亡届はデータベースにある。未来から見れば柳瀬は今日死ぬ。その事実は動かない。
柳瀬は深く息を吸った。オフィスの空調の音が耳に戻ってきた。隣の席で高橋がキーボードを叩いている音。日常の音だった。画面に向き直った。仕事をしよう、と思った。最後の五分を仕事に使おう。それがこの十一年間でいちばん自分らしい過ごし方だ。
一件目。塚田義明。入力。確認。承認。二件目。手島清。入力。確認。承認。いつも通りの手順で、いつも通りの正確さで処理した。
三件目。柳瀬朋美。自分の名前を死因欄の隣に見ながら、「不詳」と入力した。未来の管理局が記した死因をそのまま使う。自分の本当の死因は自分にも分からない。処理日、本日。提出者、柳瀬朋美。入力を終え、承認ボタンの上にカーソルを合わせた。
9時11分。柳瀬は隣の席の高橋に声をかけた。
「高橋さん。今日の処理、三件目まで終わっています。四件目以降はデスクの上のファイルです」
「え? 柳瀬さん、どこか行くんですか」
「引き継ぎです」
高橋が怪訝な顔をした。柳瀬は少しだけ笑った。もう少しだけ、この仕事を続けたかった。来年の春には新しい案件の分類体系を提案するつもりで、メモを書き溜めていた。あのメモもファイルに入っている。高橋が見つけてくれるだろうか。見つけてくれたら嬉しい。
画面に向き直った。承認ボタン。クリックした。
9時12分。
画面の文字が揺れた。柳瀬の目が揺れたのか画面が揺れたのか、区別がつかなかった。椅子に座ったまま、柳瀬の輪郭が薄くなっていった。
「柳瀬さん?」
高橋が声をかけたとき、椅子には誰も座っていなかった。画面にはデータベースが開いたまま残されており、三件目の処理は承認済みと表示されていた。9時12分。
柳瀬朋美のデスクにはコーヒーのマグカップが残っていた。白地に青い花の模様。中身はまだ温かかった。一口も飲まれていなかった。高橋がファイルを確認すると、四件目以降の処理案件が綴じられており、最初のページに柳瀬の字の付箋が貼ってあった。「高橋さんへ。以降よろしくお願いします。奥に分類体系の改善メモがあります。使えそうなら使ってください」
殉職報告書 第15号 氏名:柳瀬朋美(36) 所属:内閣府特務管理局 法務課 死因:時間異常による存在の遡及的終了 備考:本報告書は柳瀬自身が生前に処理済み。在職十一年、入力ミスなし。 後任:高橋真一。マグカップは遺族に返却。 柳瀬が残した分類体系の改善メモは、翌年度より法務課の 正式運用に採用された