堀内正志は毎朝五時四十分に目を覚ます。枕元のアラームが鳴る前に意識が浮上する習慣は、現場を離れて十年経っても変わらなかった。五十四歳の体は節々が軋むが、起き上がる動作に迷いはない。
洗面台の鏡に映る自分の顔を見て、今日も研修がある、と頭の中で確認する。コーヒーを淹れ、食パンを一枚焼き、テレビのニュースを音だけ聞きながら朝食を摂る。テーブルの上には研修実施要項の束と、昨夜赤ペンを入れた評価シートが広がっていた。
特務管理局人事教育課の教官として十八年。研修生は延べ三百人を超える。堀内の仕事は、配属前の新人エージェントに現場技術の基礎を叩き込むことだった。
尾行、監視、連絡、退避。華やかな技術ではない。だが基礎がなければ現場では死ぬ。堀内はそれを知っている。自分がかつて現場にいたとき、基礎を怠った同期が二人死んだからだ。
腰のホルスターには何も入っていない。十年前に現場を外れたとき、拳銃を返納した。以来、ホルスターだけを腰につけている。
理由を聞かれたことがある。「癖です」と答えた。本当は少し違う。空のホルスターの重さが、自分はもう撃つ側ではないのだと思い出させてくれる。守る方法は銃だけではない。
今日の研修生は二人。二十四歳の女と二十二歳の男。名前は覚えない。覚えると情が移る。研修期間中は「一番」と「二番」で呼ぶ。卒業式のときに初めて名前で呼ぶ。
それが堀内のやり方だった。何人もの研修生が「教官に名前を呼ばれたとき嬉しかった」と後で言ったが、堀内はそのことを日誌にも報告書にも書いたことがない。
科目は尾行実習。新宿三丁目、昼の繁華街。人が多い場所は尾行に適しているが、同時に予測不能な変数も多い。
堀内は毎回、研修前に実習場所を歩き、ルートを二つ以上設定し、退避経路を確認する。今朝も七時に新宿に出て、アルタ前から靖国通り、大久保方面への動線を歩いた。問題はなかった。
対象役は事務員の杉本に依頼してある。杉本は左足を引きずる癖があり、尾行対象としては特徴が多すぎるが、安全性を優先した人選だ。
研修の対象は本物である必要はない。本物に出会ったとき生き延びる判断力を教えるために、偽物で練習する。
「教科書の三十二ページを開け」と堀内は言った。二人が開いた。「尾行の基本。対象との距離は二十メートル以上。視線は対象の背中ではなく影に向ける。影を追えば歩行が自然になる。背中を見ると体が前のめりになり、それが気配として伝わる」
午後一時。アルタ前に対象が現れた。四十代の男性、灰色のジャケット、手ぶら。ブリーフィング通りの服装だった。一番が歩き出し、堀内はさらに二十メートル後ろについた。二番は堀内の隣。
風が暖かく、十月の陽射しが新宿のビルの壁面をオレンジ色に染めていた。こういう日に研修ができるのは悪くない、と堀内は思った。卒業したら彼らは緊張の中でしか街を歩けなくなる。今のうちに陽の光の下を歩く感覚を覚えておいてほしかった。
五分。一番は二十メートルの距離を維持している。紀伊國屋書店の前を通過し、靖国通りに出た。悪くない動き。
だが十分を過ぎたあたりで対象が大久保方面に曲がったとき、堀内の胸に小さな違和感が引っかかった。歩き方だ。杉本は左足を引きずる。今の対象は両足が均等で、むしろ訓練された人間特有の安定した歩幅を刻んでいる。
堀内はインカムを押した。「堀内だ。杉本、今どこにいる」。三秒。五秒。応答がなく、堀内の背筋を冷たいものが這い上がった。
「杉本です。すみません、電車が遅れてまだ駅です」
では一番が追っている灰色のジャケットの男は誰だ。アルタ前を、指定の時刻に、指定の服装で歩き出した人間。偶然にしては条件が揃いすぎている。堀内の十八年の経験が、偶然ではないと告げていた。
「一番、止まれ。尾行を中止しろ」
インカムに応答がない。一番は対象との距離を十メートルまで詰めていた。堀内が教えた二十メートルを守っていない。堀内は走り出した。五十四歳の脚は重い。だが走れる。走ることだけはまだできる。
対象が振り返った。一番と目が合った。一番が硬直した。
「一番、離れろ!」
対象の手がジャケットの内側に入った。堀内はその動作の意味を知っていた。十年前まで自分もやっていた動作だ。堀内は一番と対象の間に体を入れた。研修生を背中に庇う形で、両腕を広げた。
空気を裂く音がした。サプレッサー付きの発砲音。新宿の雑踏に紛れるほど小さな音。堀内の胸の左に衝撃が走り、一拍遅れて熱い痛みが広がった。膝がアスファルトに落ちた。冷たかった。
一番が堀内の肩を掴んだ。「教官!」という声が近い。堀内は一番の顔を見上げた。二十四歳。名前は知らない。知らないままでいい。
「走れ。交番に行け。考えるな。走れ」
一番と二番が走り出した。堀内が教えた通りに、振り返らずに。対象はすでに人混みに消えていた。堀内は路上の壁に背を預けた。シャツの左胸が赤く染まっていく。通行人が気づき始め、「大丈夫ですか」「救急車を」という声がした。
堀内は携帯電話を出した。特管局の緊急回線。
「堀内です。新宿三丁目、研修中に実対象と遭遇。被弾しました。研修生二名は無事、交番に向かっています。回収をお願いします。研修報告書は机の上に——今日の分は、書けませんでした」
電話を切った。空を見上げると、ビルの隙間から十月の青空が見えた。あの二人の名前をまだ知らない、と堀内は思った。卒業式で名前を呼ぶつもりだった。名前を呼んだとき、あの二人がどんな顔をするか、見たかった。
三百人の研修生にそうしてきたように。もう少し長く教官をやりたかった。
サイレンが遠くから近づいてくる。堀内は目を閉じた。研修生たちは今頃、走っている。堀内が教えた通りに。それだけで十分だった。
殉職報告書 第13号 氏名:堀内正志(54) 所属:内閣府特務管理局 人事教育課 死因:研修中の実対象との遭遇。研修生を庇い被弾。出血性ショック 備考:研修生二名は無傷で保護。対象の身元は調査中。 堀内の机上に研修報告書が残されており、最終記入は前日分まで。 二名の研修生は翌月に正式配属。配属式で担当官が名前を読み上げたとき、 二人とも泣いた。理由は聞かなかった