小説置き場

第12話「調剤過誤報告」

2,682文字 約6分

白川紀子の朝は、台所の窓から入る光で始まる。六十三歳。毎朝五時に起きて、まず白湯を飲む。それから仏壇に線香を上げる。十五年前に亡くなった夫の写真に向かって手を合わせ、「行ってきます」と声に出して言う。声に出さないと、一日の最初の言葉が職場での「おはようございます」になってしまう。それでは喉が温まらない。白川はそう思っていた。

 朝食は白米と焼き鮭と漬物。四十年間ほとんど変わらない。薬剤師の仕事は指先の精度がすべてだから、朝は必ずしっかり食べる。血糖値が安定しないと手が震える。

 六十三歳の手は、二十三歳の手ほど安定しない。だからこそ、体調管理に妥協しない。四十年間、一度も調合ミスをしなかったのは才能ではなく、習慣の積み重ねだった。

 翼医療グループ特殊調剤室。白川の職場は、総合病院の地下二階にある。一般の薬局とは完全に隔離された区画で、入室には三重の認証が必要になる。

 白川が調合するのは、人間のための薬ではない。神格存在——この世界の裏側に棲む、人知を超えた存在——に捧げる奉納薬だった。

 神格存在は食事をしない。祈りを糧にする。だが祈りだけでは足りないことがある。体調が崩れたとき、薬が要る。

 その薬の成分は通常の医薬品と重なる部分もあるが、比率が桁違いに精密だった。甘草の濃度を〇・〇一パーセント間違えれば、薬は毒に変わる。神格存在にとっての毒は、調合した人間に逆流する。

 白川は毎朝七時に出勤し、調剤室の温度と湿度を確認するところから仕事を始める。室温二十一度、湿度四十五パーセント。この条件が崩れると生薬の吸湿率が変わり、計量に誤差が出る。

 温度計を読み、湿度計を読み、記録簿に手書きで数値を記入する。四十年間の記録簿は段ボール三箱分になっていた。

 今日の処方箋は蓮華院ネットワーク経由で届いた。

「奉納薬第三十七号。成分:甘草エキス三・四二パーセント、桂皮エキス一・八七パーセント、精製水九四・七一パーセント。容量:五〇〇ミリリットル。納期:本日中」

 本日中。急ぎだ。通常は三日の余裕がある。白川は処方箋を読み直した。成分比は見慣れたものだった。奉納薬第三十七号は過去にも十数回調合している。手順は体が覚えている。

 後任の柏木が引き継ぎのために隣にいた。三十二歳。真面目で慎重な薬剤師だ。白川は来月で退職する。四十年間の技術を、残りの一ヶ月で柏木に伝えなければならない。

「柏木さん、今日の分は私がやります。見ていてください」

「はい」

 白衣を着て、手袋をはめて、マスクをつけた。調剤台の上にガラス容器と電子天秤を並べる。甘草エキスの瓶を取り出し、蓋を開けた。

 甘草エキス。処方箋は三・四二パーセント。五〇〇ミリリットルの溶液に対する三・四二パーセントは——

 白川の手が秤の上で止まった。頭の中で計算が回る。五〇〇ミリリットルの三・四二パーセント。十七・一グラム。

 そう、十七・一グラムだ。

 白川は薬さじで甘草エキスを量り始めた。電子天秤の表示。三・四二〇グラム。

 手が止まった。

 三・四二〇グラム。

 なぜこの数字で手を止めたのか、白川は一瞬理解できなかった。処方箋に三・四二と書いてあったから、三・四二〇グラムを量った。いや——三・四二はパーセントだ。グラムではない。五〇〇ミリリットルの三・四二パーセントは十七・一グラムだ。それは、先ほど頭の中で計算した。計算したのに、手は三・四二〇グラムで止まった。

 頭と手が別のことをしている。

 白川はゆっくりと息を吐いた。四十年間、一度もなかったことだ。計算は正しくできている。だが手が、処方箋の数字をそのまま量ってしまった。目が「三・四二」を読んで、手が「三・四二〇グラム」を量った。脳を経由しなかった。

 やり直す。白川は量り取った甘草エキスを戻そうとした。

 容器の中の液体が光った。淡い金色。

 奉納薬は、材料が容器の中で混ざり合った時点で神格存在との接続が始まる。甘草エキスと容器の中に残っていた微量の精製水——前回の調合で容器の内壁に残った水分——が反応して、接続が起動した。

 成分比率を間違えた状態で、接続が始まっている。

 逆流が来る。

 白川にはそれが分かった。四十年間の知識が、一瞬で状況を理解させた。間違った薬が神格存在に触れれば、毒として弾かれ、調合者に返ってくる。

「柏木さん、下がって」

 白川の声は落ち着いていた。

「白川先生?」

「この容器に触らないで。調剤室から出てください。今すぐ」

 柏木は白川の目を見た。四十年のベテランの目が、穏やかに、しかし有無を言わさず「出ろ」と告げていた。柏木は調剤室を出た。

 白川の手から金色の光が昇り始めた。手袋を通過し、皮膚を通過して、骨の奥から光が滲み出している。痛みはなかった。熱もなかった。ただ体が軽くなっていく。

 白川は調剤台に手をついた。手が台を通り抜けた。体が透けている。

 引き継ぎ。まだ終わっていない。柏木に教えなければならないことが山ほどある。処方箋の読み方。パーセントとグラムを間違えるな。四十年間間違えなかった人間でも——最後の一回で。

 白川は声を出そうとした。出なかった。喉が光になりつつある。

 監視カメラの映像が記録していた。白川の体が金色の光に包まれ、輪郭が薄れ、三秒かけて消えていく。最後に残ったのは白衣と手袋だった。中身を失った白衣が、ふわりと床に崩れ落ちた。

 十分後、柏木が調剤室に入った。床の白衣。台の上の容器。処方箋。柏木は処方箋を見て、容器の中の液体の成分を逆算した。

「甘草が足りない」

 柏木は容器を廃棄し、新しい容器を取り出し、最初から調合をやり直した。甘草エキス十七・一グラム。桂皮エキス九・三五グラム。精製水四七三・五五ミリリットル。混合。ガラス棒で三十回、右回り。

 手が震えなかった。まだ三十二歳だからだ。

 完成した奉納薬を容器に移しながら、柏木は白川の白衣を見た。きれいに畳まれている——いや、畳まれているのではない。中身が消えて、布が自重で折り重なっただけだ。白衣のポケットに何かが入っていた。柏木が取り出すと、メモ帳だった。白川の字で、引き継ぎ事項が細かく書き込まれている。最後のページにこうあった。

「柏木さんへ。朝は必ず食べてください。手が安定します」

 殉職報告書 第12号  氏名:白川紀子(63)  所属:翼医療グループ特殊調剤室  死因:奉納薬の調合ミスによる神気逆流・消滅  備考:遺体なし。勤続四十年間で初の調剤過誤。     後任の柏木が同日中に正規品を納品し、業務に支障なし。     白川が残した引き継ぎメモは全三十七ページ。     最後のミスについての記述はない。     だが柏木は毎朝、白米と焼き鮭を食べるようになった