小説置き場

第11話「有害コンテンツ削除申請」

2,764文字 約6分

藤沢アキラの一日は、カーテンの隙間から差し込む光で始まる。築三十年のワンルーム、六畳。目覚ましは七時にセットしてあるが、いつも六時半に目が覚める。体が時間を覚えてしまっている。

 起き上がって顔を洗い、冷蔵庫から牛乳を出してシリアルにかける。テーブルの上にはノートパソコンが開きっぱなしで、画面には昨夜見ていた動画サイトのトップページが映っている。仕事でもプライベートでも画面を見ている生活だな、と思いながらスプーンを口に運ぶ。二十七歳。この仕事を始めて十一ヶ月になる。

 エンリング株式会社の三次請け——下請けの下請けの下請け——でSNSコンテンツの監視業務を請け負っている。雇用契約ではなく業務委託。時給千三百円。交通費なし。

 AIでは判断しきれないグレーゾーンの投稿を人間の目で見て、削除すべきか残すべきか振り分ける。暴力映像、違法薬物の広告、児童虐待、ヘイトスピーチ。一日のノルマは五百件。

 以前はコンビニでアルバイトをしていた。監視員の方が時給はいいし、座ってできる。面接のとき「精神的にきつい仕事です」と説明されたが、二十六歳の藤沢は「大丈夫です」と答えた。

 大丈夫ではなかった。最初の一ヶ月で五キロ痩せた。三ヶ月目に不眠が始まった。六ヶ月目から、夢の中でも映像の仕分けをしている。

 だが辞めなかった。辞めたら次の仕事を探す気力がない。気力があるうちに辞めればよかったのだが、気力がなくなったから辞められない。そういう順番だった。

 八時半に家を出て、渋谷のオフィスビルに向かう。エレベーターで八階。監視業務のフロアはパーティションで区切られた個人ブースが並んでいる。蛍光灯が白い。窓がない。外の天気が分からない。

 ブースに座り、業務用端末にログインした。今日のキューが表示される。五百件。藤沢はヘッドフォンを装着し、一件目を開いた。

 暴力映像。十二秒。男性が別の男性を殴打している。路上。スマートフォンで撮影。削除。理由コード:V-03。次。

 薬物広告。画像一枚。テキスト付き。隠語が散りばめられている。「お花畑行きませんか」。削除。理由コード:D-01。次。

 一件あたり平均四十秒。五百件で約五時間半。休憩を挟んで八時間のシフト。藤沢の指はマウスとキーボードの間を機械的に往復する。

 四百九十七件目まで処理した。暴力映像三十二件削除。薬物広告十一件。ヘイトスピーチ四十五件。残りはグレー判定で上位審査送り。

 四百九十八件目。映像。三十七秒。投稿者は匿名アカウント。サムネイルは東京の夜景。何の変哲もない風景動画に見えた。

 再生した。

 ビルの光。車のテールライト。東京タワーが遠景に見える。観光客が撮ったような映像。削除の理由がない。「問題なし」で処理しようとした。

 十五秒目で手が止まった。ビルの窓の光が点滅している。ランダムではない。パターンがある。

 藤沢はマニュアルを開いた。「ストロボ効果による光過敏性発作の誘発パターン」のチェックリスト。点滅頻度は毎秒三回以下。閾値を下回っている。医学的には問題ない。

 だが何かがおかしい。言語化できない違和感。十一ヶ月間、毎日五百件の映像を見てきた目が「これは普通ではない」と告げている。藤沢はもう一度再生した。

 二十秒目。画面に吸い寄せられた。ビルの光のパターンが何かを伝えようとしている気がした。メッセージ。意味。——いや、そんなものはない。光は光だ。パターンは偶然だ。

 三回目を再生した。二回目と三回目の境界が曖昧だった。再生が終わって、再生ボタンを押して、また始まる。その繰り返しに藤沢の意思がどこまで介在していたのか、後から振り返っても分からない。

 四回目。五回目。六回目。

 藤沢の世界は三十七秒の映像のループになっていた。東京の夜景。ビルの光。点滅するパターン。繰り返すたびに映像の中の光が少しずつ鮮やかになっていく。いや、鮮やかになっているのではなく、藤沢の目がそう見えるようになっている。瞳孔が開いているのだ。

 七回目の途中で、隣のブースの佐々木が声をかけた。

「藤沢、もう上がりの時間だぞ」

 返事がなかった。

「藤沢?」

 佐々木がパーティション越しに覗き込んだ。藤沢は画面を見ていた。体が微動だにしない。瞬きをしていない。

 佐々木は藤沢の肩に手を置いた。藤沢がゆっくりと振り返った。瞳孔が開ききっていた。虹彩が見えない。黒い目。

「きれいだよ」

 藤沢が言った。声は穏やかだった。

「何が」

「光。見て。きれいだから。佐々木さんも見た方がいい。こんなにきれいなもの、見たことない」

 佐々木は画面を見なかった。マニュアルの最終ページを思い出していた。

 赤字で印刷された警告文。「監視員が対象コンテンツに対して異常な執着・感情反応を示した場合、画面を直視せず、ただちに電源を物理的に切断すること」。

 佐々木はモニターの電源ケーブルを引き抜いた。

 画面が暗転した。藤沢は暗い画面を見つめ続けた。

「もう一回」

「藤沢、目を閉じろ」

「もう一回見せて。お願い。あれが見たい」

 藤沢の声には懇願があった。欲しいものを取り上げられた子供のような、切実な声だった。

 佐々木はその声を聞いて背筋が冷えた。十一ヶ月間、あらゆる残酷な映像を無表情で処理してきた藤沢が、夜景の映像に対してだけ、こんな声を出している。

「目を閉じろ!」

 藤沢は目を閉じなかった。閉じた画面の表面に、オフィスの蛍光灯が反射して映り込んでいる。その反射光の中にさえ、パターンを探そうとする目が動いていた。

 瞼の裏に焼きついた光がある。消えない。藤沢はその光を追いかけて、追いかけて、追いかけた先でもう戻れなくなった。

 搬送先は翼医療グループの特殊病棟だった。診断名は「高度認知汚染による不可逆的精神機能損壊」。

 藤沢アキラの体は生きている。心臓は動いている。目は開いている。だがその目には、もう外の世界が映っていない。消えないビルの光を、三十七秒のループを、永遠に見続けている。

 藤沢のブースには翌日、新しい監視員が座った。二十四歳。時給千三百円。交通費なし。佐々木が引き継ぎをした。

 問題の映像は、モニターの電源を切った時点でプラットフォームから自動的に消えていた。削除ログは残っていない。

 藤沢のワンルームの冷蔵庫には、飲みかけの牛乳が残っていた。賞味期限は九月十八日だった。

 殉職報告書 第11号  氏名:藤沢アキラ(27)  所属:エンリング株式会社(三次請け)監視業務部門  死因:認知兵器化映像の反復視聴による不可逆的精神機能損壊  備考:雇用形態が業務委託のため、正規の殉職認定には該当しない。     本報告書は特管局の判断により例外的に作成された。     遺族への説明は「過労による精神疾患」。     同僚の佐々木がマニュアルに従い電源を切断しなければ、     被害はフロア全体に拡大した可能性がある。     佐々木の判断を、ここに記録しておく