塚田義明の朝は、妻が台所で味噌汁を温め直す音から始まる。六時十五分。布団の中で天井を見つめながら、今日の配送ルートを頭の中でなぞる。多摩方面、某研究施設。時間指定は午後二時。高速を使えば一時間半。余裕がある日だ。
起き上がると左膝が鳴った。四十九歳の膝は、十月の朝にはいつも軋む。 台所に行くと、妻の弘子が卵焼きを皿に移しているところだった。「今日は遅くなる?」と聞かれ、「定時には戻る」と答えた。嘘ではない。多摩なら夕方には帰れる。
弘子が入れてくれた緑茶を飲み、卵焼きをひと切れ口に入れると、少し甘かった。弘子の卵焼きはいつも砂糖が多い。十二年前に結婚したときからずっとそうで、文句を言ったことは一度もない。
玄庫ロジスティクス第七特殊輸送班の車庫に着いたのは七時半だった。今日の荷物は、いつもの黒い箱だ。四十センチ四方、重さ十二キロ。表面に赤い封印テープが七重に巻かれている。赤は「取扱注意・開封厳禁・温度変化厳禁」を意味し、塚田はこの色を見るたびに背筋が自然と伸びる。
勤続十二年、無事故、無遅配、社内表彰三回。封印物の取り扱いは体に染みついていて、積み込みの際に封印の状態を確認する手が迷うことはない。テープの変色なし、膨張なし、異音なし——チェックシートに記入しながら、指先で一層ずつ触れていく。
テープの表面がかすかに冷たいのは正常だ。この冷たさが消えたら異常。それを教えてくれたのは前任の木下で、木下はもうこの世にいない。何で死んだかは聞いていない。聞かないのが暗黙の了解だった。 伝票の備考欄には赤字で「受取人不在の場合は絶対に持ち帰ること。現地での開封・放置・仮置き不可」と印刷されている。塚田はこの一文を三回読んだ。赤字の備考は、読み返す回数を増やすためにある。
中身が何かは知らない。知らないほうがいい。知ったところで配送の手順は変わらないし、知ってしまったら怖くなるかもしれない。
十月の午後、高速道路は空いていた。ラジオからは天気予報が流れ、晴れ、気温十九度、湿度四十パーセント。荷台の温度計は十五度を維持している。
窓を少しだけ開けると、秋の空気が頬に触れた。多摩の山が遠くに見える。紅葉にはまだ早いが、緑が少しくすんできている。帰ったら弘子に紅葉を見に行こうと言おうか、と思った。去年も同じことを思って、結局言わなかった気がする。 研究施設に着いたのは午後一時四十五分だった。十五分の余裕。悪くない。門の前でトラックを止め、インターホンを押した。応答がない。二回、三回。沈黙だけが返ってくる。
携帯で管理者に電話したが、呼び出し音が虚しく鳴り続けて留守番電話に切り替わった。塚田は伝票の備考欄を見た。「受取人不在の場合は絶対に持ち帰ること」。持ち帰る。それが正しい手順だ。
トラックに戻り、荷台の温度計を確認した。十五度。正常。安堵して封印テープに目をやったとき、塚田の喉が詰まった。赤いテープの三層目に変色がある。橙に近い色。十五分前にチェックしたときには、なかった。 荷台に乗り込み、膝をついて変色部分に顔を近づけた。封印の劣化を示す色だ。塚田の手が無意識にポケットの携帯を探った。
助手席のダッシュボードから百二十ページの取扱手順書を取り出し、第七章「封印劣化時の対応手順」を開く。第一項、「封印に変色が認められた場合、直ちに本社特殊管理課に連絡すること」。 三コールで宮原が出た。「第七班の塚田です。配送品の封印テープ三層目に変色。赤から橙。五センチ四方。配送先は不在です」「了解。そのまま待機。応援を——」通話が途切れた。画面を見ると圏外。多摩の山間部では珍しくない。
車を動かして電波を探したいが、手順書の第二項が頭をよぎる。「封印劣化確認後三十分以内に車両を移動してはならない。振動が封印を加速劣化させる可能性がある」。動かせない。
荷台に座り、箱を見つめた。変色は広がっている。五センチ四方が、十センチ四方に。赤が薄れていく速度を目で追いながら、塚田は自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。
怖いのだ、と思った。十二年この仕事をしていて、封印が劣化する現場に立ち会うのは初めてだった。研修では何度もシミュレーションした。手順は覚えている。だが、箱の中から低い音が聞こえてきたとき、手順書のどの行にも書かれていない恐怖が腹の底に落ちた。金属が擦れるような音。あるいは——呼吸のような音。 トラックの外に出て周囲を見た。研究施設の門は閉まったまま。駐車場には自分のトラックだけ。人の気配はどこにもない。携帯は圏外のまま。
戻って温度計を見ると、二十二度に上がっていた。七度も。四層目にも変色が始まっている。 手順書の第三項。「複数層の同時劣化が確認された場合、緊急封印キットを使用し、応急封印を施すこと」。塚田は助手席の下から銀色のケースを引き出した。
中に入っている追加テープと封印液、そして一度も使ったことのない緊急封印装置を並べ、深く息を吸った。手が震えている。握りしめて止めた。弘子の卵焼きの甘さが、なぜかこのとき舌の奥に蘇った。
封印液を三層目と四層目の変色部分に塗った。液体が赤く光る。正常反応。これで変色の進行が止まるはずだった。止まらなかった。
五層目が変色し、六層目が変色し、箱が微かに震えた。緊急封印装置を箱の上面に設置し、起動スイッチを押す。青い光が箱を包んだ瞬間、七層目のテープが音もなく剥がれた。端が持ち上がり、くるりと巻き戻るように。 箱の蓋が開いた。中に何が入っていたのか、塚田には見えなかった。見える前に白い光があった。音のない、質量のない光。 塚田は無線機を握った。圏外でも無線なら届く可能性がある。周波数を合わせ、ボタンを押した。 「こちら第七班塚田。配送先不在。荷物の封印が全層劣化。緊急封印装置は効果なし。対処不能。繰り返す——配送先不在、対処不能」 白い光がトラックの荷台を満たし、窓から漏れ、駐車場を白く染めていく。塚田は無線機のボタンを押し続けた。最後の報告を送り届けることだけが、今の自分にできる仕事だった。
光が消えた。トラックが残り、研究施設の門が残り、駐車場のアスファルトが残った。助手席にはマニュアルが開いたまま置かれている。第七章、第三項の途中。塚田義明はいなかった。荷物もなかった。 翌朝、特殊管理課の宮原が現場に到着した。荷台には封印テープの残骸が散らばり、温度計は十五度に戻っていた。
無線の録音を再生すると、塚田の声が流れた。落ち着いた声だった。十二年間、一度も配送先を間違えなかった男の、最後の業務報告。
殉職報告書 第1号 氏名:塚田義明(49) 所属:玄庫ロジスティクス第七特殊輸送班 死因:封印物暴走による消失 備考:遺体なし。遺品はトラック一台、取扱手順書一冊。 手順書は第七章第三項が開かれたままだった。最後まで手順に従おうとした形跡がある。
宮原はペンを置いた。次の配送員が、明日から同じルートを走る。弘子さんには今日中に連絡を入れなければならない。紅葉が始まる前に。