小説置き場

第9話「御影川、夕暮れ」

2,519文字 約6分

理澄に誘われた。

 正確に言うと、「御影川の遊歩道沿いで異常な磁場変動を計測したから確認に付き合え」と言われた。それを聞いた史乃が「私も行きます」と言い、結果として三人で川沿いを歩くことになった。

 十月の終わり。午後四時。日が短くなっている。

 御影川は御影坂市を東西に流れる小さな川で、両岸に遊歩道が整備されている。桜並木が続いていて、春は花見客で混み合うらしい。今は葉が色づき始めていて、緑と黄色と橙が入り混じっている。

「ここです。この辺りで先週、スマホのコンパスアプリがおかしくなったんです」

 理澄がスマホを取り出して、画面を見せた。方位磁針のアプリ。針がくるくる回っている、わけではなく、普通に北を指していた。

「今日は正常だな」

「先週は三十度ズレてました。再現性がないのが気持ち悪い」

「再現性がないことが気持ち悪いって、理系だなあ」

 史乃が笑った。巫女装束ではなく、私服だ。白いニットにベージュのスカート。神社の外で会うと、普通の大学生にしか見えない。

「気持ち悪いでしょう、普通に。原因不明の現象を放置するのは」

「原因不明のこと、世の中にいっぱいあるよ?」

「だから全部調べたいんです」

 二人が言い合っている。言い合い、というほど険悪ではない。史乃が柔らかく受け流して、理澄が食い下がる。テンポがいい。

 俺は二歩ほど後ろを歩いていた。

 三人で歩く。それだけのことが、妙に、落ち着かない。

 向こう側でも仲間はいた。最初の七年は一人だったが、そのあとは二人の協力者がいた。だがあれは「仲間」であって「友人」ではなかった。命を預け合う関係と、夕暮れの川沿いを散歩する関係は、似ているようでまるで違う。

 友人。この二人は俺の友人だろうか。

 俺は五十二だ。中身は。二十二歳の女の子二人と夕暮れの川沿いを歩いて、これは何の構図だ。孫と散歩する老人か。

「久瀬さん、遅いですよ」

 史乃が振り返った。

「……ああ、悪い。考えごとしてた」

「何の?」

「いや——川がきれいだなと思って」

「ふうん」

 理澄が横目で見た。信じていない顔だ。この子は嘘を見抜くのがうまい。

「久瀬。あなた、こういう場に慣れてないでしょう」

「こういう場?」

「人と一緒に、目的もなく歩くこと」

 鋭い。

「……まあ、あんまり経験がない」

「大学四年間、友達いなかったんですか」

「理澄ちゃん、それ聞き方」

 史乃がたしなめた。理澄は肩をすくめた。悪気はない。ただ正確な情報が欲しいだけだ。

「友達は——いた。たぶん。でも、長いこと一人でやってきたから。癖が抜けないんだと思う」

 長いこと。三十年。一人で帰る方法を探し続けた三十年。最初の七年は本当に一人だった。人間の言葉を話す相手がいなかった。独り言を言って自分の声を確認する。それが一日の中で唯一の会話だった期間が、七年。

「久瀬さん」

 史乃が隣に並んだ。歩調を合わせてくれている。

「無理に話さなくてもいいですよ。歩くだけでも」

「……ありがとう」

「でも、歩くときは隣にいてください。二歩後ろだと寂しいので」

 寂しい。

 その言葉が、思ったより深いところに刺さった。

 遊歩道のベンチに座った。理澄が自販機で缶コーヒーを三つ買ってきた。微糖。黙って受け取った。

「この川、昔はもっと汚かったらしいですよ」

 史乃が川面を見ながら言った。

「宮司さんが言ってました。三十年くらい前は生活排水で臭かったって」

 三十年前。俺がいなくなった頃だ。あの頃の御影川は確かに、覚えていない。大学一年のとき、この川を見たはずだが、記憶にない。まだ街に馴染む前に飛ばされた。

「今はきれいですね」

「人間が手入れすればきれいになるんだよ、川は。放っておくと淀むけど」

 理澄が缶コーヒーを飲みながら言った。何でもない一言だが、妙に響いた。

 手入れすればきれいになる。放っておくと淀む。

 俺のことか。三十年放っておかれた存在。帰ってきて、少しずつ手入れしている。史乃のお茶。理澄の論理。日常の反復。それが俺を、この世界に——。

 夕日が落ちてきた。

 空が橙から紫に変わっていく。あの世界では紫の空が常態だったが、こっちの世界の紫は一日のうちのほんの数分だけだ。その短さがいい。短いから、きれいだ。

「きれい」

 史乃が呟いた。

「ああ」

 三人で黙って夕暮れを見ていた。缶コーヒーの温かさが手のひらに伝わっている。理澄がスマホで何か記録している。データ、だろう。この子はいつもデータを取っている。

 悪くない時間だった。向こう側では、こういう穏やかな夕暮れは存在しなかった。三十年ぶりの、いや、もしかしたら、こういう時間を過ごすのは生まれて初めてかもしれない。大学一年のとき、友人と夕暮れを眺めたことがあっただろうか。覚えていない。たぶん、なかった。

 風が吹いた。秋の風。川面が揺れた。

 史乃の視線が、ふと川面に落ちた。

 そして——固まった。

「久瀬さん」

「ん?」

「……いえ。なんでもないです」

 史乃の声が、少しだけ硬かった。笑顔はいつも通り。だが目の奥に、何かを見てしまった人間の色があった。

 俺は気づかなかった。そのときは。

 あとになって考えれば、史乃が見たものは、川面に映った三人の影だった。理澄の影。史乃の影。そして俺の影。

 俺の影だけが、一瞬、透けていた。

 川底の石が、影を通して見えていた。

 史乃はそれを、俺には言わなかった。

 帰り道。駅の手前で三人は別れた。

「また来週。磁場の計測、続けますから」

 理澄が手を振った。小さく、事務的に。

「久瀬さん、ちゃんとご飯食べてくださいね」

 史乃がいつもの世話焼きの顔で言った。だがその目が、ほんの少しだけ、俺の足元を見ていた。影を確認するように。

「ああ。ありがとう。今日は、楽しかった」

 楽しかった。口に出してみると、思ったより自然な言葉だった。

 アパートに帰った。六畳一間。家具は最小限。机と布団と本棚。本棚には、古書街で集めた文献が並んでいる。昨日の一冊、玻璃から受け取った『帰路の研究』も。

 窓を開けた。秋の夜の空気が入ってくる。

 友人と過ごした夕暮れ。たったそれだけのことが、胸の中に残っている。温かいような、痛いような。三十年の空白が、ほんの少しだけ埋まったような気がした。

 ——でも、影が透けている。

 俺はまだ、完全にはここにいないのだ。