小説置き場

第8話「書房通り、夕暮れの邂逅」

2,473文字 約5分

古書街は夕暮れが似合う。

 御影坂書房通り。大学の正門から五分ほど歩いた先に、古い書店が七軒ほど並んでいる。どの店も間口が狭く、棚が通りにまではみ出していて、歩道が本の壁になっている。文庫が百円。専門書が三百円。値札が日に焼けて読めないものもある。

 俺がここに来るのは週に二回。火曜と金曜。目的はいつも同じだ。

 帰還術に関する文献を探している。

 帰還術。異世界から元の世界に戻るための理論体系。俺が三十年かけて独力で構築した術式の基盤には、こちら側の文献、民俗学、神道学、境界論が必要だった。向こう側で手に入らなかった資料を、今になって探している。

 何のために。もう帰ってきたのに。

 理由は二つある。一つは、帰還が完全ではないから。手が透ける。存在が不安定になる瞬間がある。術式に穴があるのか、代償が足りていないのか。それを突き止めるには、理論を再検証する必要がある。

 もう一つは、最後のひと月の記憶がないからだ。

 異世界の最後のひと月。帰還術を完成させた前後の記憶が、まるごと抜け落ちている。何が起きたのか分からない。何を代償にしたのか分からない。それが怖い。

 古書街の三軒目。「常盤堂」という小さな店。ここには民俗学の棚がある。以前、折口信夫の全集を見つけた店だ。

 棚を眺めた。背表紙を指でなぞる。『日本の祭祀と境界』。『道返しの民俗』。『神の依り代——信仰の物質性』。

 ——待て。

 三冊目。『神の依り代——信仰の物質性』。この本を、俺は知っている。向こう側で、あるはずのない記憶の断片として何度も夢に見た。表紙の色。活字の並び。だが実物を手にしたことはない。

 手を伸ばした。

「それ、奥にもう一冊あります」

 声がした。背後から。

 振り返った。

 少女が、いや、若い女性が、いや。年齢が分からない。十五にも二十五にも見える。古書店の薄暗さの中に、最初からそこにいたかのように立っていた。

 髪は黒い。長くも短くもない。服は地味だが、古書店に馴染みすぎている。壁に並んだ古い背表紙の一部みたいに。

 目だけが、妙に多くを語る目をしていた。

「……まあ、店員さん?」

「店番です。今日だけ。おじいさんが出かけているので」

 常盤堂の店主は七十過ぎの老人だ。孫に店番をさせているのか。だが、この子は店主に似ていない。顔立ちもそうだが、もっと根本的なところが。

「奥の棚に、同じ著者の別の本があります。そっちのほうが、久瀬さんには役に立つと思います」

 名前を言っていない。

 俺はこの古書店で名前を名乗ったことがない。店主にも。常連ではあるが、レジで世間話をする程度で、自己紹介はしていない。

「……俺の名前、知ってるのか」

「はい」

 嘘のない声だった。嘘がないことが、かえって不自然だった。

「知ってます。久瀬恒一さん。——おかえりなさい」

 おかえりなさい。

 その言葉に、体が反応した。鳥肌が立つのではなく、もっと深いところが震えた。骨の芯が共鳴するような。

 向こう側で三十年間、誰にも言われなかった言葉。こっちに戻ってきてからも、言われたことがない。帰ってきたことを誰も知らないのだから当たり前だ。

「……どういう意味だ」

「そのままの意味です。帰ってきたんでしょう。遠いところから。長い時間をかけて」

 少女の目が、俺を見ている。見ているというより、読んでいる。本の頁をめくるように、俺の中の何かを読み取っている。

「奥の棚、案内します」

 少女が身を翻して、店の奥に入っていった。俺は、ついていった。警戒すべき場面だ。五十二年分の経験がそう告げている。正体不明の相手について行くな。向こう側では、それで三回死にかけた。

 だが足が動いた。祠のときと同じだ。直感が理性を追い越す。

 店の奥は薄暗かった。棚と棚の間が狭く、本の匂いが濃い。紙とインクと、少しだけ、線香の匂い。

 少女が一冊の本を抜き取った。

「これです」

 『帰路の研究——道返しと境界の神学』。

 著者名を見て、息が止まった。

 知っている名前だった。向こう側で、俺が帰還術の理論を組み立てるとき、参照した文献リストに載っていた名前。だが、その本は向こう側には存在しなかった。こちら側にあるはずの本。ずっと探していた本。

「……なんで、これがここに」

「ずっとここにありましたよ。久瀬さんが探しに来るのを、待ってたみたいに」

 少女が本を差し出した。俺は受け取った。向こう側では、書物は命と等価の貴重品だった。表紙は古びているが、保存状態は良い。開いてみた。目次。序論。第一章「道返しの構造」。

 これは、本物だ。

「……君は」

「久我玻璃です。くが、はり」

「玻璃さん。君はどうして俺のことを……」

「それは、長い話になります。今日は本を持って帰ってください。代金はいりません」

「いらない?」

「おじいさんには私から言っておきます。大丈夫です」

 大丈夫、という言葉の響きが妙だった。本の代金の話をしているはずなのに、もっと大きな何かを保証しているような。

 俺は本を手に、店の出口に向かった。夕暮れの光が入口から差し込んでいる。振り返った。

 玻璃が棚の間に立っている。薄暗い店内で、彼女の輪郭だけがやけに鮮明だった。

「玻璃さん。最後に一つ」

「はい」

「俺に帰れと言ったのは、誰かに頼まれたのか」

 玻璃が少し首を傾げた。考えているのではなく、答え方を選んでいる顔だった。

「頼まれてはいません。でも……」

 間があった。

「でも、まだ完全には帰れていないでしょう?」

 心臓が跳ねた。

 手が透ける。存在が不安定になる。帰還が完了していない。それを、この少女は知っている。

 答える前に、玻璃は棚の奥に消えていた。消えた、という表現が正しい。歩いて去ったのではない。気づいたら、もうそこにいなかった。

 店の外に出た。夕暮れの御影坂書房通り。古書店の看板が橙色の光に染まっている。手の中の本が重い。文庫本一冊分の重さのはずだが、もっとずっと重い。

 スマホが震えた。史乃からのメッセージ。

 『今日の巡回終わりました! 異常なしです😊 久瀬さんは今どこですか?』

 返信を打とうとして、指が止まった。

 古書店で会った少女のことを、どう説明すればいいのか分からなかった。