御影川緑道で幽霊が出るらしい。
史乃がスマホを見せてくれた。地域の掲示板サイト。投稿は匿名。
『夜10時頃、御影川の遊歩道を歩いていたら、川沿いに女の人が立ってました。声をかけようとしたら消えました。怖いです』
『私も見ました。同じ場所です。橋のたもとのベンチの近く。白っぽい服の人で、川を見てました。近づいたら消えました』
『あれ、三日連続で出てるらしいよ。夜10時から11時くらい』
投稿日は三日前から。幽霊の目撃情報。川沿い。女性。白い服。消える。
「幽霊、ですかね」
「幽霊じゃない」
「断言しますね」
「ああ。向こう側には幽霊はいなかった。死者は死ぬ。残らない。——こっちの世界でも同じだ。死者は残らない。残るのは生きている人間の願いだ」
史乃が首を傾げた。
「じゃあ、あの幽霊は……」
「誰かの願いの投影。誰かが強く何かを願って、その願いが形を取って現れている。祠のときと同じ構造だ」
夜十時。御影川緑道。行ってみることにした。
十月の夜は冷える。シャツの上にジャケットを着た。史乃はカーディガンの上にマフラーを巻いている。まだ十月なのに。寒がりだ。
「久瀬さん、寒くないんですか?」
「慣れてる。もっと寒い場所にいたことがある」
「向こう側?」
「ああ。冬は氷点下四十度になった。洞窟の中で火を焚いて、朝まで起きてた。寝たら死ぬから」
「……それ、サバイバルですよね」
「三十年間ずっとサバイバルだった」
史乃が黙った。それから、小さく言った。
「帰ってこられて、よかったです」
不意に、喉が詰まった。
「……ああ」
御影川。幅十メートルほどの小さな川。遊歩道が両岸に整備されていて、ベンチが点在している。桜並木があるが、十月は葉だけだ。街灯がぽつぽつと川面を照らしている。
橋のたもと。ベンチ。目撃情報の場所。
時刻は午後十時。
待った。
十分。二十分。川の水音だけが聞こえる。隣のベンチで史乃がマフラーに顔を半分埋めている。
十時三十二分。
見えた。
橋のたもと、ベンチの横。川に面した手すりの前に、女性が立っている。白いブラウス。髪が長い。年齢は三十代くらいに見える。川面を見ている。
透けている。向こう側の街灯の光が、体を通り抜けている。
幽霊ではない。
目を凝らした。異世界で鍛えた目。願いの色を見る目。
淡い青。未練の色。そして、その青の中に、暖色が混ざっている。オレンジ。懐かしさの色。帰りたい。ここに戻りたい。そういう願いの色だ。
「史乃。見えるか」
「見えます。あの人、泣いてるように見えます」
泣いている。涙は見えないが、佇まいが泣いている。故郷の川を見つめて、帰りたいと思っている誰かの願い。
近づいた。五メートル。三メートル。女性の輪郭が揺れている。
手を伸ばした。——触れない。手がすり抜けた。実体がない。願いの投影だから。
だが、触れた瞬間に、断片が流れ込んできた。
この橋。このベンチ。桜の季節。花びらが川面に散る。自転車で通った帰り道。夕焼け。友達と食べたアイス。御影坂のにおい。土と木と、少しだけ甘い空気。
記憶。この場所の記憶。誰かの、この場所への記憶。
そして、名前。
矢野、紗季。
投影が消えた。夜風が吹いて、残像が散った。
「分かった」
「何が分かったんですか」
「この人、矢野紗季さん。十年くらい前にこの街から引っ越した人だ。この場所が好きだった。この川の、この橋のたもとが」
「どうやって……」
「触れたとき、記憶が流れてきた。祠のときと同じだ」
史乃が目を丸くした。もう驚き慣れてきた顔だが、まだ完全には慣れていない。
「その人に、連絡を取ればいいんですか」
「ああ。願い主本人に、気持ちの整理をつけてもらう。それが一番きれいな処理だ」
問題は連絡先だ。十年前に引っ越した人間。名前しか分からない。
「史乃。神社の氏子名簿って、過去のも残ってるか」
「残ってるはずです。宮司さんが几帳面な人なので。引っ越した人の記録も、あるかも」
翌日。御影坂神社の社務所。古い氏子名簿を引っ張り出した。十年前の記録。「矢野」の名字。住所は御影坂市内。電話番号が記載されている。固定電話。古い番号だが、実家のものであれば今も生きているかもしれない。
電話をかけた。社務所の固定電話を借りた。
三回のコールで出た。年配の女性の声。
「はい、矢野です」
「突然すみません。御影坂神社の関係者で、矢野紗季さんのお母様でしょうか」
「紗季? 娘ですけど、何かありましたか」
「お嬢さんは今、どちらにお住まいですか」
「福岡です。主人の転勤で十年前に。紗季は結婚して向こうに。何かあったんですか?」
「いえ。お嬢さんの携帯の番号を教えていただけませんか。神社の方からお伝えしたいことがありまして」
怪しい。完全に怪しい電話だ。だが、史乃が横から「雨宮です、巫女のバイトをしている雨宮史乃です」と声を出してくれたことで、矢野さんのお母さんは安心したらしい。番号を教えてもらえた。
矢野紗季さんに電話をかけた。
「もしもし?」
三十代の女性の声。明るい。だが、どこか、疲れている。
「突然すみません。御影坂のことでお電話しています。矢野紗季さんですか」
「はい。御影坂? 懐かしいな。何のご用でしょう」
「紗季さん。御影坂のこと、よく思い出しますか」
電話の向こうが、沈黙した。
「……どうして、そんなこと」
「御影川の、橋のたもとのベンチ。桜の季節。自転車の帰り道」
長い沈黙。
そして——小さな声。
「……帰りたいんです。ずっと」
紗季さんの声が震えていた。
「福岡も悪くないんです。夫も優しいし、子供もいて。でも、ときどき、夢に見るんです。あの川。あの橋。あの道。帰りたい。御影坂に帰りたいって。ごめんなさい、知らない人に何言ってるんだろう」
「いいんです。聞いてます」
三十年、帰りたかった人間が言う。聞いてます。
「紗季さん。あなたの『帰りたい』って気持ちは、ちゃんと届いてます。御影坂は、あなたのことを覚えてますよ」
嘘ではない。この街は覚えている。紗季さんの願いが形を取って、毎晩川沿いに現れるくらいには。
「帰れなくても、大丈夫です。思い出すことは、悪いことじゃない。帰りたい気持ちを持ったまま、今いる場所で暮らすことは、できます」
俺にはできなかった。三十年間、帰りたい気持ちに支配されていた。帰ることしか考えられなかった。でもこの人は違う。この人には福岡の生活がある。家族がいる。帰りたい気持ちと、今の生活を、両方持っていい。
「……ありがとうございます。なんだろう。電話一本で、こんなに楽になるなんて」
「また御影坂に来てください。商店街の和菓子屋、まだありますよ」
「清月堂! あるんですか! 子供の頃、練り切り買ってもらうの大好きだったんです」
電話を切った。
史乃が隣で目を潤ませていた。
「久瀬さん」
「ん」
「この街って、帰りたい願いが、集まるんですかね」
史乃の言葉に、はっとした。
祠の願い。時計を巻き戻したかった学生、あれは「やり直したい」だ。清月堂の三浦さん、あれは「戻したい」だ。そして矢野紗季さん、「帰りたい」。
全部、ベクトルが過去を向いている。戻す。やり直す。帰る。
「……集まってるのかもしれない。この街には、帰りたい願いが」
御影坂。帰還者の俺が戻ってきた街。ここに帰ってきたのは大学があったからだ。でも、この街が俺を引き寄せた可能性は、ないか。帰りたい願いが集まる土地に、帰りたかった男が帰ってきた。偶然か。必然か。
残り九十六件。
社務所を出ようとしたとき、スマホが震えた。
鷺沢理澄。
『久瀬さん。少しお時間もらえませんか。見せたいものがあります』
翌日。大学の食堂。理澄が向かいの席に座った。ノートパソコンではなく、紙のノートを持っている。A5サイズ。黒い表紙。使い込まれている。
「これ」
理澄がノートを開いた。
中には、俺の行動記録があった。
日付。時間。場所。行動。備考。
『10/5 18:32 体育館裏の祠に接触。10分間。手を石に置いていた』
『10/7 9:30 統計学の教室に入る。時計を注視。授業は履修していない』
『10/8 15:20 掲示板前で一年女子と会話。直後、体育館裏の祠の発光が消失(未確認・推測)』
『10/12 17:45 清月堂に入る。滞在時間40分。店主と長時間会話。退店後、店内温度が上昇した(商店街の人の証言)』
『10/14 22:00-23:00 御影川緑道。雨宮史乃と同行。橋のたもとで何かに接触する動作。翌日以降、幽霊の目撃情報が消失』
丁寧な字。几帳面な記録。データに基づく分析。
理澄が俺を見た。
「久瀬さん。あなたが行った場所で、異常が消えてるんです。偶然にしては、出来すぎてます」
「……まあ、お前、いつからこれを」
「合同ゼミで初めて会った日から。あなたの言動が不自然だったから」
フリック入力の観察から、ここまで広げた。二週間で。行動を追跡し、周辺情報を集め、パターンを抽出している。
「根拠は? って聞かないんだな」
「根拠を聞いても答えないでしょう。だから自分で集めました」
理澄のノートの最後のページ。そこに一文が書いてあった。
『仮説: 久瀬恒一は、この街の異常現象を意図的に処理している。手段・動機・背景は不明。継続調査中』
継続調査中。
つまり、まだ終わっていない。理澄はこれからも俺を観察し続ける。
「鷺沢」
「はい」
「——嫌じゃないのか。気味が悪いだろ。普通は」
「気味が悪い?」
理澄が少し首を傾げた。表情が変わらない。だが、目の奥に、微かな光がある。知的好奇心。純粋な、子供のような好奇心。
「私は怖がっていません。分からないものは、調べれば分かります。分からないまま怖がるほうが、よっぽど非合理的です」
そう言って、ノートを閉じた。
「——次に何か起きたら、教えてください。データが増えれば精度が上がるので」
データ。俺の行動がデータになっている。向こう側では、俺自身がデータを集める側だった。観察される側になるのは、落ち着かない。
だが、不思議と嫌ではなかった。
見られている。調べられている。それは、この世界に存在している証拠でもある。
透ける手。消えるかもしれない不安。
でも、理澄のノートの中に、俺の行動記録がある。日付と時間と場所が書かれている。俺がここにいた証拠が、紙の上に残っている。
それが、少しだけ、心強かった。