小説置き場

第7話「川沿いの幽霊」

4,148文字 約9分

御影川緑道で幽霊が出るらしい。

 史乃がスマホを見せてくれた。地域の掲示板サイト。投稿は匿名。

 『夜10時頃、御影川の遊歩道を歩いていたら、川沿いに女の人が立ってました。声をかけようとしたら消えました。怖いです』

 『私も見ました。同じ場所です。橋のたもとのベンチの近く。白っぽい服の人で、川を見てました。近づいたら消えました』

 『あれ、三日連続で出てるらしいよ。夜10時から11時くらい』

 投稿日は三日前から。幽霊の目撃情報。川沿い。女性。白い服。消える。

「幽霊、ですかね」

「幽霊じゃない」

「断言しますね」

「ああ。向こう側には幽霊はいなかった。死者は死ぬ。残らない。——こっちの世界でも同じだ。死者は残らない。残るのは生きている人間の願いだ」

 史乃が首を傾げた。

「じゃあ、あの幽霊は……」

「誰かの願いの投影。誰かが強く何かを願って、その願いが形を取って現れている。祠のときと同じ構造だ」

 夜十時。御影川緑道。行ってみることにした。

 十月の夜は冷える。シャツの上にジャケットを着た。史乃はカーディガンの上にマフラーを巻いている。まだ十月なのに。寒がりだ。

「久瀬さん、寒くないんですか?」

「慣れてる。もっと寒い場所にいたことがある」

「向こう側?」

「ああ。冬は氷点下四十度になった。洞窟の中で火を焚いて、朝まで起きてた。寝たら死ぬから」

「……それ、サバイバルですよね」

「三十年間ずっとサバイバルだった」

 史乃が黙った。それから、小さく言った。

「帰ってこられて、よかったです」

 不意に、喉が詰まった。

「……ああ」

 御影川。幅十メートルほどの小さな川。遊歩道が両岸に整備されていて、ベンチが点在している。桜並木があるが、十月は葉だけだ。街灯がぽつぽつと川面を照らしている。

 橋のたもと。ベンチ。目撃情報の場所。

 時刻は午後十時。

 待った。

 十分。二十分。川の水音だけが聞こえる。隣のベンチで史乃がマフラーに顔を半分埋めている。

 十時三十二分。

 見えた。

 橋のたもと、ベンチの横。川に面した手すりの前に、女性が立っている。白いブラウス。髪が長い。年齢は三十代くらいに見える。川面を見ている。

 透けている。向こう側の街灯の光が、体を通り抜けている。

 幽霊ではない。

 目を凝らした。異世界で鍛えた目。願いの色を見る目。

 淡い青。未練の色。そして、その青の中に、暖色が混ざっている。オレンジ。懐かしさの色。帰りたい。ここに戻りたい。そういう願いの色だ。

「史乃。見えるか」

「見えます。あの人、泣いてるように見えます」

 泣いている。涙は見えないが、佇まいが泣いている。故郷の川を見つめて、帰りたいと思っている誰かの願い。

 近づいた。五メートル。三メートル。女性の輪郭が揺れている。

 手を伸ばした。——触れない。手がすり抜けた。実体がない。願いの投影だから。

 だが、触れた瞬間に、断片が流れ込んできた。

 この橋。このベンチ。桜の季節。花びらが川面に散る。自転車で通った帰り道。夕焼け。友達と食べたアイス。御影坂のにおい。土と木と、少しだけ甘い空気。

 記憶。この場所の記憶。誰かの、この場所への記憶。

 そして、名前。

 矢野、紗季。

 投影が消えた。夜風が吹いて、残像が散った。

「分かった」

「何が分かったんですか」

「この人、矢野紗季さん。十年くらい前にこの街から引っ越した人だ。この場所が好きだった。この川の、この橋のたもとが」

「どうやって……」

「触れたとき、記憶が流れてきた。祠のときと同じだ」

 史乃が目を丸くした。もう驚き慣れてきた顔だが、まだ完全には慣れていない。

「その人に、連絡を取ればいいんですか」

「ああ。願い主本人に、気持ちの整理をつけてもらう。それが一番きれいな処理だ」

 問題は連絡先だ。十年前に引っ越した人間。名前しか分からない。

「史乃。神社の氏子名簿って、過去のも残ってるか」

「残ってるはずです。宮司さんが几帳面な人なので。引っ越した人の記録も、あるかも」

 翌日。御影坂神社の社務所。古い氏子名簿を引っ張り出した。十年前の記録。「矢野」の名字。住所は御影坂市内。電話番号が記載されている。固定電話。古い番号だが、実家のものであれば今も生きているかもしれない。

 電話をかけた。社務所の固定電話を借りた。

 三回のコールで出た。年配の女性の声。

「はい、矢野です」

「突然すみません。御影坂神社の関係者で、矢野紗季さんのお母様でしょうか」

「紗季? 娘ですけど、何かありましたか」

「お嬢さんは今、どちらにお住まいですか」

「福岡です。主人の転勤で十年前に。紗季は結婚して向こうに。何かあったんですか?」

「いえ。お嬢さんの携帯の番号を教えていただけませんか。神社の方からお伝えしたいことがありまして」

 怪しい。完全に怪しい電話だ。だが、史乃が横から「雨宮です、巫女のバイトをしている雨宮史乃です」と声を出してくれたことで、矢野さんのお母さんは安心したらしい。番号を教えてもらえた。

 矢野紗季さんに電話をかけた。

「もしもし?」

 三十代の女性の声。明るい。だが、どこか、疲れている。

「突然すみません。御影坂のことでお電話しています。矢野紗季さんですか」

「はい。御影坂? 懐かしいな。何のご用でしょう」

「紗季さん。御影坂のこと、よく思い出しますか」

 電話の向こうが、沈黙した。

「……どうして、そんなこと」

「御影川の、橋のたもとのベンチ。桜の季節。自転車の帰り道」

 長い沈黙。

 そして——小さな声。

「……帰りたいんです。ずっと」

 紗季さんの声が震えていた。

「福岡も悪くないんです。夫も優しいし、子供もいて。でも、ときどき、夢に見るんです。あの川。あの橋。あの道。帰りたい。御影坂に帰りたいって。ごめんなさい、知らない人に何言ってるんだろう」

「いいんです。聞いてます」

 三十年、帰りたかった人間が言う。聞いてます。

「紗季さん。あなたの『帰りたい』って気持ちは、ちゃんと届いてます。御影坂は、あなたのことを覚えてますよ」

 嘘ではない。この街は覚えている。紗季さんの願いが形を取って、毎晩川沿いに現れるくらいには。

「帰れなくても、大丈夫です。思い出すことは、悪いことじゃない。帰りたい気持ちを持ったまま、今いる場所で暮らすことは、できます」

 俺にはできなかった。三十年間、帰りたい気持ちに支配されていた。帰ることしか考えられなかった。でもこの人は違う。この人には福岡の生活がある。家族がいる。帰りたい気持ちと、今の生活を、両方持っていい。

「……ありがとうございます。なんだろう。電話一本で、こんなに楽になるなんて」

「また御影坂に来てください。商店街の和菓子屋、まだありますよ」

「清月堂! あるんですか! 子供の頃、練り切り買ってもらうの大好きだったんです」

 電話を切った。

 史乃が隣で目を潤ませていた。

「久瀬さん」

「ん」

「この街って、帰りたい願いが、集まるんですかね」

 史乃の言葉に、はっとした。

 祠の願い。時計を巻き戻したかった学生、あれは「やり直したい」だ。清月堂の三浦さん、あれは「戻したい」だ。そして矢野紗季さん、「帰りたい」。

 全部、ベクトルが過去を向いている。戻す。やり直す。帰る。

「……集まってるのかもしれない。この街には、帰りたい願いが」

 御影坂。帰還者の俺が戻ってきた街。ここに帰ってきたのは大学があったからだ。でも、この街が俺を引き寄せた可能性は、ないか。帰りたい願いが集まる土地に、帰りたかった男が帰ってきた。偶然か。必然か。

 残り九十六件。

 社務所を出ようとしたとき、スマホが震えた。

 鷺沢理澄。

 『久瀬さん。少しお時間もらえませんか。見せたいものがあります』

 翌日。大学の食堂。理澄が向かいの席に座った。ノートパソコンではなく、紙のノートを持っている。A5サイズ。黒い表紙。使い込まれている。

「これ」

 理澄がノートを開いた。

 中には、俺の行動記録があった。

 日付。時間。場所。行動。備考。

 『10/5 18:32 体育館裏の祠に接触。10分間。手を石に置いていた』

 『10/7 9:30 統計学の教室に入る。時計を注視。授業は履修していない』

 『10/8 15:20 掲示板前で一年女子と会話。直後、体育館裏の祠の発光が消失(未確認・推測)』

 『10/12 17:45 清月堂に入る。滞在時間40分。店主と長時間会話。退店後、店内温度が上昇した(商店街の人の証言)』

 『10/14 22:00-23:00 御影川緑道。雨宮史乃と同行。橋のたもとで何かに接触する動作。翌日以降、幽霊の目撃情報が消失』

 丁寧な字。几帳面な記録。データに基づく分析。

 理澄が俺を見た。

「久瀬さん。あなたが行った場所で、異常が消えてるんです。偶然にしては、出来すぎてます」

「……まあ、お前、いつからこれを」

「合同ゼミで初めて会った日から。あなたの言動が不自然だったから」

 フリック入力の観察から、ここまで広げた。二週間で。行動を追跡し、周辺情報を集め、パターンを抽出している。

「根拠は? って聞かないんだな」

「根拠を聞いても答えないでしょう。だから自分で集めました」

 理澄のノートの最後のページ。そこに一文が書いてあった。

 『仮説: 久瀬恒一は、この街の異常現象を意図的に処理している。手段・動機・背景は不明。継続調査中』

 継続調査中。

 つまり、まだ終わっていない。理澄はこれからも俺を観察し続ける。

「鷺沢」

「はい」

「——嫌じゃないのか。気味が悪いだろ。普通は」

「気味が悪い?」

 理澄が少し首を傾げた。表情が変わらない。だが、目の奥に、微かな光がある。知的好奇心。純粋な、子供のような好奇心。

「私は怖がっていません。分からないものは、調べれば分かります。分からないまま怖がるほうが、よっぽど非合理的です」

 そう言って、ノートを閉じた。

「——次に何か起きたら、教えてください。データが増えれば精度が上がるので」

 データ。俺の行動がデータになっている。向こう側では、俺自身がデータを集める側だった。観察される側になるのは、落ち着かない。

 だが、不思議と嫌ではなかった。

 見られている。調べられている。それは、この世界に存在している証拠でもある。

 透ける手。消えるかもしれない不安。

 でも、理澄のノートの中に、俺の行動記録がある。日付と時間と場所が書かれている。俺がここにいた証拠が、紙の上に残っている。

 それが、少しだけ、心強かった。