朝、目が覚めて最初にやったことは、自分の手を見ることだった。
左手を顔の前にかざす。天井の蛍光灯の光。手の甲。指。爪。皮膚の下に血管が透けて見える。普通の、人間の手だ。光を通してはいない。向こう側が見えたりしない。
大丈夫だ。昨夜のあれは、疲労か何かだ。
そう結論づけようとして、失敗した。
俺は三十年間、異世界で帰還術を研究してきた人間だ。四十七回の実験のうち四十六回を失敗した人間だ。「たぶん大丈夫」で済ませていたら、とっくに死んでいる。
手が透けた。
一瞬だが、確かに透けた。街灯の光が手の甲を素通りして、アスファルトが見えた。物理的にあり得ない。いや、普通の物理ではあり得ない。帰還術の理論では、あり得る。
存在の不安定化。
向こう側で学んだ理論。世界を渡る際に、存在が元の世界に完全に定着するまでには時間がかかる。定着が不完全な場合、存在が揺らぐ。具体的には、物質としての密度が一時的に下がる。光が通る。触れたものをすり抜ける。最悪の場合——消える。
帰還術が成功して、こっちの世界に戻ったと思っていた。実際、戻ってはいる。大学にいる。アパートに住んでいる。飯を食えるし、人と話せる。物理的に存在している。
だが、完全ではないのかもしれない。
九十九、いや、二件処理したから九十七。残り九十七の案件。あれは単なるノルマではなく、定着のための条件なのか。案件を処理するたびに、この世界への定着が進む。逆に言えば、処理しなければ——。
考えるのをやめた。考えても仕方がない。今の段階では情報が足りない。
大学に行った。講義を受けた。ノートを取った。ノートに字を書く手は、透けなかった。
昼休み。食堂で味噌汁を飲みながら、左手を見た。箸を持つ右手を見た。どちらも普通だ。
午後、図書館で卒論の資料を探した。棚から本を引き出す手。ページをめくる指。全部、実体がある。
大丈夫——じゃない。昨夜の一瞬が、頭から離れない。
夕方、御影坂神社に行った。
社務所の裏の縁側。史乃がお茶を淹れてくれた。今日は巫女装束ではなく、大学の帰りらしい私服姿だ。パーカーにジーンズ。巫女装束のときとは印象が違う。普通の大学生に見える。当たり前だ。彼女は普通の大学生だ。
「久瀬さん、顔色悪いですよ。寝てます?」
「寝てる。六時間は」
「六時間で足りるんですか?」
向こう側では四時間睡眠が普通だった。危険地帯では二時間。六時間眠れたら贅沢な日だった。
——比べるな。ここは安全な場所だ。
「史乃」
「はい」
「一つ、聞いてほしいことがある」
史乃がお茶を置いた。こっちを向いた。表情が変わった。世話焼きの顔から、聞く人の顔に。
「俺のこと、普通じゃないって、前に言っただろ」
「はい」
「普通じゃない。その通りだ。俺は、長い間、ここにいなかった」
ここにいなかった。曖昧な言い方だ。でもこれが今の俺に言える精一杯だ。
「長い間って……」
「三十年」
数字を出した。出してしまった。
史乃の目が見開かれた。でも、声を上げなかった。
「三十年。この世界じゃないどこかに、三十年いた。帰ってきたのは最近だ。体は二十二のままだけど、中身は、五十二年分ある」
言葉にすると、馬鹿みたいだ。ラノベの設定みたいだ。実際、ラノベの設定に似ていると思う。本屋で似たような話の表紙を見たことがある。だが俺の場合、チートスキルはないし、ハーレムもないし、あるのは残り九十七件の面倒ごとだけだ。
「それで、あの祠の光が見えるんですか」
「ああ。三十年で、そういう目が身についた」
史乃が黙った。十秒。二十秒。長い沈黙だった。
否定されるかと思った。頭がおかしいと思われるかと思った。
「……信じます」
史乃が言った。静かな声だった。
「理由は?」
「久瀬さんの目が嘘をついてないから。それと、あの祠の光は本物です。私も見えてるんです。見える人間がいるなら、三十年どこかにいた人がいても、おかしくないかなって」
論理的ではない。全然論理的ではない。でも、史乃の論理は理屈ではなく実感に基づいている。見えるものを信じる。目の前の人間を信じる。それは理澄とは正反対のアプローチで、俺にはありがたかった。
「それで、何か困ってることがあるんですか。今日、話してくれたのは」
「……昨日、手が透けた」
「手が?」
左手を見せた。今は普通の手だ。
「一瞬だけ。街灯の光が手を通り抜けた」
史乃が俺の左手を見た。そっと、自分の手で触れた。
温かい。史乃の手は温かい。そして俺の手は、ちゃんとそこにある。すり抜けない。
「今は、ちゃんとあります」
「ああ」
「でも不安なんですね。消えるかもしれないって」
消える。その言葉を、俺は自分で口にできなかった。史乃が代わりに言った。
「……ああ。たぶん、俺はまだ完全には帰ってきてない。案件を処理することで、定着が進む、のかもしれない。まだ仮説だけど」
「じゃあ、案件を全部片づければ……」
「帰還が完了する。たぶん」
「たぶん」
「確証はない。ないけど、やるしかない」
史乃が頷いた。それから、立ち上がった。
「お茶のおかわり、入れますね」
日常の動作。お茶を淹れる。それだけのことが、救いになる。向こう側では、こういう何気ない日常がなかった。水を汲むのも命がけの日があった。
お茶を受け取った。
飲んだ。温かい。
「久瀬さん」
「ん」
「宮司さんに、話してみません? 明後日、戻られるんです。こういうこと、宮司さんなら何か知ってるかもしれない」
宮司。御影坂神社の宮司。史乃が「こういうことに詳しい」と言っていた人物。まだ会ったことがない。
「……まあ、会ってみるか」
「はい。紹介します」
社務所を出た。境内の石段を下りる。夕暮れ。銀杏が風に揺れている。空がオレンジと紫のグラデーション。
スマホが震えた。メッセージ。鷺沢理澄。
『久瀬さん。大学の学籍データベース、ちょっと調べたいことがあるんですが。三年次の休学届が出てないのに単位がゼロって、通常あり得ないんですよね。何かご存知ですか?』
理澄は独自に動いている。俺の不自然さを、データで裏づけようとしている。
返信を打った。フリック入力。まだ遅い。
『今度話す』
送ってから、これでは何の答えにもなっていないと気づいた。だが、スマホ越しに話せる内容ではない。
石段の途中で、足を止めた。
境内の奥。本殿の横に、古い建物がある。宮司の住居だろう。その窓から、誰かがこちらを見ていた。
老人。白髪。神職の装束。
目が合った。
老人が何か呟いた。声は聞こえない。だが唇の動きが読めた。三十年で身につけた技術だ。
——道返しの者が来たか。
道返し。
向こう側で、帰還術を成功させたとき。最後に聞いた言葉と、同じだ。
老人は窓から姿を消した。
石段の下で、史乃が振り返った。
「久瀬さん? どうしました?」
「……いや。何でもない」
何でもなくは、ない。
道返し。この言葉を知っている人間が、こちらの世界にもいる。
残り九十七件の案件。透ける手。そして、「道返しの者」という呼び名。
俺はまだ、自分が何の契約を結んだのか、全部は分かっていない。