小説置き場

第6話「六畳間の朝光」

2,843文字 約6分

朝、目が覚めて最初にやったことは、自分の手を見ることだった。

 左手を顔の前にかざす。天井の蛍光灯の光。手の甲。指。爪。皮膚の下に血管が透けて見える。普通の、人間の手だ。光を通してはいない。向こう側が見えたりしない。

 大丈夫だ。昨夜のあれは、疲労か何かだ。

 そう結論づけようとして、失敗した。

 俺は三十年間、異世界で帰還術を研究してきた人間だ。四十七回の実験のうち四十六回を失敗した人間だ。「たぶん大丈夫」で済ませていたら、とっくに死んでいる。

 手が透けた。

 一瞬だが、確かに透けた。街灯の光が手の甲を素通りして、アスファルトが見えた。物理的にあり得ない。いや、普通の物理ではあり得ない。帰還術の理論では、あり得る。

 存在の不安定化。

 向こう側で学んだ理論。世界を渡る際に、存在が元の世界に完全に定着するまでには時間がかかる。定着が不完全な場合、存在が揺らぐ。具体的には、物質としての密度が一時的に下がる。光が通る。触れたものをすり抜ける。最悪の場合——消える。

 帰還術が成功して、こっちの世界に戻ったと思っていた。実際、戻ってはいる。大学にいる。アパートに住んでいる。飯を食えるし、人と話せる。物理的に存在している。

 だが、完全ではないのかもしれない。

 九十九、いや、二件処理したから九十七。残り九十七の案件。あれは単なるノルマではなく、定着のための条件なのか。案件を処理するたびに、この世界への定着が進む。逆に言えば、処理しなければ——。

 考えるのをやめた。考えても仕方がない。今の段階では情報が足りない。

 大学に行った。講義を受けた。ノートを取った。ノートに字を書く手は、透けなかった。

 昼休み。食堂で味噌汁を飲みながら、左手を見た。箸を持つ右手を見た。どちらも普通だ。

 午後、図書館で卒論の資料を探した。棚から本を引き出す手。ページをめくる指。全部、実体がある。

 大丈夫——じゃない。昨夜の一瞬が、頭から離れない。

 夕方、御影坂神社に行った。

 社務所の裏の縁側。史乃がお茶を淹れてくれた。今日は巫女装束ではなく、大学の帰りらしい私服姿だ。パーカーにジーンズ。巫女装束のときとは印象が違う。普通の大学生に見える。当たり前だ。彼女は普通の大学生だ。

「久瀬さん、顔色悪いですよ。寝てます?」

「寝てる。六時間は」

「六時間で足りるんですか?」

 向こう側では四時間睡眠が普通だった。危険地帯では二時間。六時間眠れたら贅沢な日だった。

 ——比べるな。ここは安全な場所だ。

「史乃」

「はい」

「一つ、聞いてほしいことがある」

 史乃がお茶を置いた。こっちを向いた。表情が変わった。世話焼きの顔から、聞く人の顔に。

「俺のこと、普通じゃないって、前に言っただろ」

「はい」

「普通じゃない。その通りだ。俺は、長い間、ここにいなかった」

 ここにいなかった。曖昧な言い方だ。でもこれが今の俺に言える精一杯だ。

「長い間って……」

「三十年」

 数字を出した。出してしまった。

 史乃の目が見開かれた。でも、声を上げなかった。

「三十年。この世界じゃないどこかに、三十年いた。帰ってきたのは最近だ。体は二十二のままだけど、中身は、五十二年分ある」

 言葉にすると、馬鹿みたいだ。ラノベの設定みたいだ。実際、ラノベの設定に似ていると思う。本屋で似たような話の表紙を見たことがある。だが俺の場合、チートスキルはないし、ハーレムもないし、あるのは残り九十七件の面倒ごとだけだ。

「それで、あの祠の光が見えるんですか」

「ああ。三十年で、そういう目が身についた」

 史乃が黙った。十秒。二十秒。長い沈黙だった。

 否定されるかと思った。頭がおかしいと思われるかと思った。

「……信じます」

 史乃が言った。静かな声だった。

「理由は?」

「久瀬さんの目が嘘をついてないから。それと、あの祠の光は本物です。私も見えてるんです。見える人間がいるなら、三十年どこかにいた人がいても、おかしくないかなって」

 論理的ではない。全然論理的ではない。でも、史乃の論理は理屈ではなく実感に基づいている。見えるものを信じる。目の前の人間を信じる。それは理澄とは正反対のアプローチで、俺にはありがたかった。

「それで、何か困ってることがあるんですか。今日、話してくれたのは」

「……昨日、手が透けた」

「手が?」

 左手を見せた。今は普通の手だ。

「一瞬だけ。街灯の光が手を通り抜けた」

 史乃が俺の左手を見た。そっと、自分の手で触れた。

 温かい。史乃の手は温かい。そして俺の手は、ちゃんとそこにある。すり抜けない。

「今は、ちゃんとあります」

「ああ」

「でも不安なんですね。消えるかもしれないって」

 消える。その言葉を、俺は自分で口にできなかった。史乃が代わりに言った。

「……ああ。たぶん、俺はまだ完全には帰ってきてない。案件を処理することで、定着が進む、のかもしれない。まだ仮説だけど」

「じゃあ、案件を全部片づければ……」

「帰還が完了する。たぶん」

「たぶん」

「確証はない。ないけど、やるしかない」

 史乃が頷いた。それから、立ち上がった。

「お茶のおかわり、入れますね」

 日常の動作。お茶を淹れる。それだけのことが、救いになる。向こう側では、こういう何気ない日常がなかった。水を汲むのも命がけの日があった。

 お茶を受け取った。

 飲んだ。温かい。

「久瀬さん」

「ん」

「宮司さんに、話してみません? 明後日、戻られるんです。こういうこと、宮司さんなら何か知ってるかもしれない」

 宮司。御影坂神社の宮司。史乃が「こういうことに詳しい」と言っていた人物。まだ会ったことがない。

「……まあ、会ってみるか」

「はい。紹介します」

 社務所を出た。境内の石段を下りる。夕暮れ。銀杏が風に揺れている。空がオレンジと紫のグラデーション。

 スマホが震えた。メッセージ。鷺沢理澄。

 『久瀬さん。大学の学籍データベース、ちょっと調べたいことがあるんですが。三年次の休学届が出てないのに単位がゼロって、通常あり得ないんですよね。何かご存知ですか?』

 理澄は独自に動いている。俺の不自然さを、データで裏づけようとしている。

 返信を打った。フリック入力。まだ遅い。

 『今度話す』

 送ってから、これでは何の答えにもなっていないと気づいた。だが、スマホ越しに話せる内容ではない。

 石段の途中で、足を止めた。

 境内の奥。本殿の横に、古い建物がある。宮司の住居だろう。その窓から、誰かがこちらを見ていた。

 老人。白髪。神職の装束。

 目が合った。

 老人が何か呟いた。声は聞こえない。だが唇の動きが読めた。三十年で身につけた技術だ。

 ——道返しの者が来たか。

 道返し。

 向こう側で、帰還術を成功させたとき。最後に聞いた言葉と、同じだ。

 老人は窓から姿を消した。

 石段の下で、史乃が振り返った。

「久瀬さん? どうしました?」

「……いや。何でもない」

 何でもなくは、ない。

 道返し。この言葉を知っている人間が、こちらの世界にもいる。

 残り九十七件の案件。透ける手。そして、「道返しの者」という呼び名。

 俺はまだ、自分が何の契約を結んだのか、全部は分かっていない。