御影坂の商店街には、和菓子屋がある。
「清月堂」。看板の文字がかすれている。ガラス戸の向こうに木のショーケース。練り切りと大福と、季節の栗蒸し羊羹。夕方なのに客がいない。
ここに来たのは偶然だ。史乃に頼まれた買い物、神社の行事に使う落雁を買いに来ただけだ。
ガラス戸を開けた。
冷たい。
十月の外気より、明らかに店の中のほうが冷たい。暖房が入っていないだけじゃない。温度がおかしい。体感で五度以下。吐く息が白くなりそうな寒さ。なのに、ショーケースの中の和菓子は凍っていない。
奥から老人が出てきた。七十代後半。白い作務衣。腰が少し曲がっている。穏やかな顔だが、目の下の隈が深い。
「いらっしゃい。寒いだろう。すまんね。暖房が壊れてて」
暖房の問題じゃない。
俺の目には見えている。店の奥、おそらく調理場のあたりから、淡い光が漏れている。白い光。白は執着の色だ。
神様案件。二件目。
「落雁を。御影坂神社の雨宮さんに頼まれて」
「ああ、史乃ちゃんか。はいはい、用意してあるよ」
老人が奥に引っ込んだ。その背中を見送りながら、店内を見回した。
壁に写真が飾ってある。古い写真。若い頃の店主と、隣に女性。エプロン姿。笑っている。二人の間にショーケースがある。今と同じ木のショーケース。ただ、中の和菓子の並べ方が違う。写真の中の和菓子は華やかだ。色が多い。形が細かい。今のショーケースの和菓子とは、明らかに作った人間が違う。
店主が戻ってきた。落雁の包みを持っている。
「あの写真。奥さんですか」
店主の手が、一瞬だけ止まった。
「ああ。家内だ。三年前にね」
「すみません。立ち入ったことを」
「いや、いいんだ。もう三年経つ。いや、三年なんてあっという間だな。ついこの間のような気がするよ」
三年。
俺にとっての三十年も、「ついこの間」だ。時間の感覚は、失ったもので歪む。
「和菓子を作ってたのは、奥さんのほうですか」
店主が俺を見た。少し驚いた顔。
「よく分かるね。そうだ。作るのは家内の仕事だった。わしは経営と接客。家内が死んでから、わしが作ってるが、味が違うんだ。レシピは同じなんだがね。温度が違うのか、手つきが違うのか」
温度。
この店の異常な寒さ。それは。
「あの味を、もう一度。何とかして、あの味を」
店主は独り言のように呟いた。俺に言っているのか、自分に言っているのか。あるいは、写真の中の妻に。
白い光が、店の奥で揺れた。
執着の光。「もう一度」の光。三年間、毎日同じレシピで和菓子を作り続けて、毎日「違う」と思い続けた。その積み重ねが、店の温度を変えている。
亡き妻の手の温度を探している。その願いが、店から熱を奪っている。
——三十年。
俺は三十年、帰る方法を探した。この店主は三年、味を探している。数字は違う。でも、探し続ける日々の手触りは同じだ。
毎日同じことを試す。毎日「違う」と思う。でもやめられない。やめたら終わりだから。やめたら、探しているものが本当になくなってしまうから。
胸が、痛んだ。向こう側の三十年が、一瞬だけ蘇りかけた。
——やめろ。重ねるな。俺は俺で、この人はこの人だ。
落雁を受け取った。金を払った。
「また来ます」
「ありがとうね」
店を出た。外の空気がぬるく感じた。
史乃に連絡した。電話。フリック入力はまだ遅いが、電話なら声で済む。
「もしもし、久瀬さん? 落雁買えました?」
「買えた。それと、案件だ」
「え?」
「清月堂。和菓子屋の。あそこ、温度がおかしい。願いが溜まってる」
電話の向こうで、史乃が息を呑んだ。
「三浦さんのお店……。奥さんが亡くなってから、あのお店ずっと寒いって、商店街の人たちが言ってたんです。暖房つけても寒いって。でもまさか」
「まさか、だろうな。来られるか」
「三十分で行きます」
史乃が来るまでの間、商店街のベンチに座って待った。
向こう側で、俺は何を探していた?
帰る方法。帰還術。この世界に戻ること。三十年間、それだけを追い続けた。
帰ってきた今、俺は何を探している?
分からない。まだ分からない。
史乃が来た。巫女装束ではなく私服。カーディガンにスカート。走ってきたらしく、少し息が上がっている。
「久瀬さん。あのお店、三浦さんは知ってるんですか。自分の願いが原因だって」
「知らない。本人は暖房の故障だと思ってる」
「どうするんですか」
「話す。本人と」
清月堂に戻った。史乃を連れて。
店主の三浦さんは、史乃の顔を見て少し表情が和らいだ。
「史乃ちゃん。久しぶりだね。落雁、気に入ってもらえるといいんだが」
「いつもありがとうございます。あの、三浦さん。少しお話聞いてもいいですか」
史乃が座った。俺も座った。三浦さんが奥からお茶を持ってきた。湯気が異様に早く消える。温度が奪われている。
話を聞いた。三浦さんの三十年。妻との和菓子屋。妻が練り切りの名人だったこと。季節ごとに変わる繊細な色。手の温度が絶妙で、餡を扱うときに冷たすぎず熱すぎず、いつも同じ温度を保てたこと。
「あの手の温度だけは、わしには真似できなかった」
三浦さんの目が、壁の写真を見ていた。
「三浦さん」
俺は言った。
「奥さんの味を再現しようとしてますか。毎日」
「毎日だ。三年間、一日も休んでない」
「味は、戻りましたか」
三浦さんの手が、湯呑みの上で止まった。
「……戻らない。一度も」
白い光が揺れた。俺にだけ見える。
「三浦さん。一つ、変なことを言っていいですか」
「なんだい」
「奥さんの味は、戻らないです。三年経っても、三十年経っても。同じものは二度と作れない」
残酷なことを言っている。分かっている。
「でも三浦さんの味は、ある。三浦さんが三年間作り続けた味は、奥さんの味とは違うけど、三浦さんの味としてちゃんとある」
三浦さんが俺を見た。
「あんた、何か長い時間を過ごしてきた人間の顔をしてるね」
ぐっと、胸が詰まった。
「……三十年、探しものをしてました。見つかったときには、探す前とは、全部変わってた」
三浦さんが、長い間黙っていた。湯呑みの中のお茶が冷めた。
やがて、小さく笑った。
「そうかもしれんな。わしの味で、いいのかもしれんな」
白い光が、ゆっくりと薄らいでいった。消えたのではない。薄らいだ。執着が和らいだ。手放したのではなく、握り方が変わった。
店の空気が、少しだけぬるくなった。
帰り道。商店街の街灯の下を、史乃と並んで歩いた。
「久瀬さん」
「ん」
「三十年って、さっき三浦さんに言ってましたけど」
「……ああ。いつか、ちゃんと話す」
史乃はそれ以上聞かなかった。
歩きながら、ふと左手を見た。
街灯の光の下。自分の左手。
透けている。
一瞬だけ。街灯の光が、手の甲を素通りした。向こう側のアスファルトが見えた。
目を閉じて、開けた。
手は元に戻っていた。普通の、二十二歳の手。
気のせいだ。
そう思おうとした。だが五十二年分の直感が、それを許さなかった。
俺の体は、まだこの世界に完全には定着していない。