小説置き場

第4話「学食の戸惑い」

2,981文字 約6分

スマホというのは、とにかく落ち着かない道具だ。

 画面に触れると動く。指を滑らせると移動する。ボタンがない。ボタンがないのに操作できる。三十年前、いや四年前の俺が使っていたはずの携帯電話は、ちゃんとボタンがあった気がする。気がする、というのは、飛ばされる直前の記憶がところどころ曖昧だからだ。

 食堂で昼飯を食いながら、スマホを眺めていた。史乃から連絡が来ている。

 『今日お祭りの準備で神社忙しいです〜 夜なら空いてます🙌』

 絵文字。顔の横に手が二つ。万歳か。意味は分かる。分かるが、返し方が分からない。向こう側では手紙に絵を添えることはあった。だがそれは一枚の絵に半日かけるような文化で、こういう気軽な記号のやり取りとは根本的に違う。

 『了解。夜行く』

 送った。そっけないかもしれない。でも三十年の独り言に比べれば、誰かに「行く」と伝えられるだけで十分だ。

 隣の席で男子学生二人が話している。

「それガチでエグくね?」

「まじそれな。てかあの教授バズってたよ」

 ガチ。エグい。バズる。それな。

 単語の意味はなんとなく推測できる。ガチは本気、エグいは程度が甚だしい、バズるは拡散する、それなは同意。文脈で読む技術は異世界で嫌というほど鍛えた。未知の言語を解読する日々に比べれば、日本語の派生は楽なほうだ。

 だが、自分で使おうとすると別だ。口に馴染まない。向こう側の三十年で、俺の日本語は止まっている。たぶん、俺の話し方は「やたら落ち着いた二十二歳」に聞こえているだろう。いや、「おっさんくさい二十二歳」か。

 食堂を出た。午後は研究室に顔を出す予定がある。

 卒論の指導教官に挨拶するという名目だが、本当の理由は別にある。大学構内の祠は体育館の裏にあった。あの祠に溜まっていた願いの出どころを調べるには、大学の歴史を知る必要がある。研究室の棚に大学の沿革史があるはずだ。

 研究室は三号館の四階。文学部の古い建物で、エレベーターがない。階段を上がる。息は切れない。三十年間、もっと過酷な場所を歩いてきた。

 ドアを開けた。

 中に、知らない人間がいた。

 女子学生。研究室のテーブルに向かって、ノートパソコンを開いている。目の前に資料が扇形に広げられていて、その配置が妙に几帳面だ。資料のどれにも付箋が貼ってある。色分けされている。

 こっちに気づいた。

 眼鏡越しの目が、一瞬だけ俺を上から下まで見た。観察している。分析している。異世界で出会った学者たちと同じ目だ。

「久瀬恒一さんですか」

「……そうだけど」

「鷺沢理澄です。工学部の四年。ここ、今年から合同ゼミで使ってるんです。知りませんでした?」

 知らなかった。三十年のブランクのせいだ。合同ゼミの連絡はたぶんメールで来ていたはずだが、メールの確認を忘れていた。向こう側にメールはなかった。伝書鳩に似た生き物はいたが。

「ああ、すまん。確認してなかった」

「メール、見てないんですか? 二週間前に送られてますけど」

「……最近ちょっと立て込んでて」

 理澄がノートパソコンから顔を上げた。表情は変わらない。淡々としている。だが目の奥に、何かを測定しているような光がある。

「あの、久瀬さん、スマホ持ってます?」

「持ってるけど」

「ロック画面、何も設定してないんですね。あと、通知が全部オフになってる。それ、わざとですか」

 ロック画面。通知。どちらも設定の仕方が分からなくて放置していた。

「……慣れてないだけだ」

「スマホに? 四年生で?」

 鷺沢理澄の目が細くなった。確信はないが、疑念がある、という目だ。

 まずい。ズレが露出している。二十二歳の大学四年生がスマホの通知設定を知らないのは不自然だ。機械音痴で通せる範囲を超えている。

「実家が厳しくてな。スマホ持たされたの遅かったんだ」

 嘘をついた。苦しい嘘だ。

 理澄は何も言わなかった。ただ、ノートパソコンの画面に視線を戻しただけだ。

 棚から大学沿革史を引き出して、テーブルの端に座った。ページをめくる。創立百二十年の歴史。キャンパスの配置図。体育館の裏手に祠が描かれている古い図面がないか探す。

 理澄が時折こっちを見ているのが分かる。見ているというより、計測している。こちらのページのめくり方、読むスピード、目の動き。全部データにしている。異世界の諜報員にもこういうタイプがいた。

 ——比べるな。ここの人間を向こうの人間と重ねるのは、失礼だ。

 沿革史に祠の記載は見つからなかった。ただ、大学の敷地が元は神社の所有地だったという一文があった。明治期に大学に譲渡された。その際、末社が一基取り残された可能性がある。

 メモを取ろうとして、紙がなかった。スマホのメモ帳。使ったことがない。ポケットからスマホを出して、画面を見つめた。

 メモ帳アプリ。たぶんこれだ。タッチした。キーボードが出てきた。フリック入力。指を滑らせて文字を打つ。

 遅い。

 異常に遅い。一分で三文字くらいしか打てない。向こう側では羽ペンで一分に十行書けた。

「あの」

 理澄の声。

「何」

「その打ち方、初めて使う人の動きですよね。スマホ」

 心臓が跳ねた。

「いや、だから、慣れてないって」

「慣れてない人は、キーボードの位置を探します。久瀬さんは位置を探してない。文字がどこにあるかは分かってる。でも、指の動かし方だけが慣れていない。知識はあるのに、体が追いついてない。それ、『慣れてない』じゃなくて、『長い間使ってなかった』の動きです」

 沈黙。

 鷺沢理澄は、俺の二十秒のフリック入力から、そこまで読み取った。

 理屈の人間だ。観察して、分析して、仮説を立てる。向こう側の学者連中と同じ。いや、それ以上かもしれない。

「……鋭いな」

「鋭いとかじゃないです。見れば分かります」

 理澄がノートパソコンを閉じた。椅子ごとこっちを向いた。

「もう一つ聞いていいですか」

「内容による」

「久瀬さんの履修履歴。私、合同ゼミの名簿で見たんですけど」

 嫌な予感がした。

「一、二年次の履修は普通です。教養科目を幅広く取って、成績もそこそこ。でも三年次にほとんど単位を取ってない。休学届は出てない。四年次に突然また履修が始まってるけど、選んでる科目が一、二年次と全然繋がってない」

 三年次。俺が飛ばされた年だ。飛ばされたのは三年の春。戻ってきたのも三年の春、こちらの時間では数日しか経っていなかったが、その数日の間に三年次の履修登録期間が過ぎてしまっていた。四年次に慌てて取れる科目を取った。結果、一貫性のない履修になっている。

「あなたの履修履歴、四年前と全然繋がってないんですけど」

 理澄の目が、まっすぐ俺を見ている。疑念ではない。純粋な問いだ。「説明してほしい」という、研究者の目。

「……三年のとき、いろいろあったんだ」

「いろいろ」

「ああ。いろいろ」

 理澄は三秒ほど俺を見つめてから、ノートパソコンを開き直した。

「分かりました。今日のところは」

 今日のところは。つまり、諦めてはいない。

 研究室を出た。廊下の窓から、夕焼けが見えた。十月の空。オレンジと紫が混ざっている。向こう側の夕焼けは紫一色だった。ここの空のほうが色が多い。

 足を止めた。

 スマホが震えた。メッセージ。知らない名前。

 鷺沢理澄。

 連絡先を交換した覚えはない。合同ゼミの名簿から取ったのか。行動が早い。

 『久瀬さん。フリック入力の練習アプリ送っておきます。便利ですよ』

 親切なのか、牽制なのか。

 たぶん、両方だ。