時計は、二時間目の開始と同時に巻き戻る。翌日、俺は問題の教室に入ってみた。体育館の隣の棟、二階の講義室。百人くらい入る大きな教室で、壁掛けの丸時計が正面にある。
九時半。二時間目の始まり。教授がノートパソコンを開く。学生がスマホをしまう。しまわない奴もいる。
時計を見た。
九時三十分。
秒針が動いている。普通に。カチ、カチ、カチ。
五分が経った。九時三十五分。
カチ。
秒針が止まった。
一秒。二秒。止まったまま。
そして逆回転した。
カチ、カチ、カチ。秒針が反時計回りに動いている。分針もゆっくり戻り始めた。九時三十五分から、三十四分、三十三分、三十二分。
五分後、時計は九時三十分に戻った。
教授は何も気づいていない。学生も。ノートを取っている手が止まらない。時計を見ている人間がいない。見ていたとしても、「あれ、さっきも三十五分だったような」と思う程度だ。人間の認知はそういうものだ。小さな矛盾は脳が勝手に修正する。
だが俺には分かる。時間が巻き戻っている。この教室の中だけ。
願いの力だ。
教室を出て、掲示板を確認した。この教室で行われた直近の試験。十月初旬の中間テスト。科目は統計学。結果は掲示されていない。だが、教務課の前で学生が話しているのが聞こえた。
「統計学、再試ある?」
「あるっぽい。けっこう落ちたらしいよ」
統計学の中間テスト。落ちた学生がいる。その中の誰かが祠に祈った。あと五分あれば。あと五分あれば解けたのに。
五分の未練が、毎日この時間に時計を巻き戻す。
願い主を見つける必要がある。
夕方。御影坂神社。
史乃が巫女装束のまま社務所の裏で座っていた。縁側に腰掛けて、熱いお茶を飲んでいる。
「あ、久瀬さん。来たんですね」
「宮司さんは」
「今日はお留守です。法事で。あ、お茶入れますね」
社務所の中に入った。畳の部屋。お守りの在庫が段ボールに入っている。壁に祈祷の受付表が貼ってある。A4のコピー用紙に手書きの表。令和の神社は、祈りも事務処理だ。
お茶を受け取った。緑茶。渋い。向こう側にはお茶がなかった。代わりに樹液を発酵させた飲み物があった。味は——思い出したくない。
「時計の件、やっぱり願いが原因だった。統計学の中間テストで落ちた学生が祠に祈ったらしい」
「どうやって特定するんですか」
「祈った人間の痕跡は祠に残っている。手で触れた場所に体温の残像がある。それを辿れば」
「体温の、残像?」
史乃が目を丸くしている。普通の反応だ。
「三十年やってると、こういうのが分かるようになる」
「三十年?」
しまった。
「いや。長い話だ。今度ちゃんと話す」
史乃は追及しなかった。お茶をもう一口飲んで、「分かりました」と言った。追い詰めない人だ。
翌日、祠に行って痕跡を辿った。体温の残像は一人分。最近の祈り。右手で石に触れている。手が小さい。女子の可能性が高い。
統計学を落とした女子学生。この条件に合う人間は限られる。
教務課で再試の対象者リストは見られない。だが掲示板の前で泣いている女の子を見つけた。
泣いている、というのは正確じゃない。泣きそうなのを堪えている。掲示板には再試の日程が貼ってある。彼女はそれを見つめて、唇を噛んでいた。
「あの」
声をかけた。
「統計学の再試?」
女の子が振り返った。一年生くらい。眼鏡。髪を一つに結んでいる。目が赤い。
「は、はい。あの、何か」
「あと五分あれば、解けたと思ってる?」
女の子の顔が固まった。
「……なんで、知って」
「当ててみただけだ。でも五分巻き戻しても、解けないよ」
女の子が黙った。
「時間が足りなかったんじゃない。勉強の仕方が合ってなかったんだ。統計学は暗記じゃない。計算の手順を体に叩き込む科目だ。あと五分あっても、手順が入っていなければ同じだ」
偉そうなことを言っている。俺だって統計学は得意じゃなかった。三十四年前の話だが。
「だったらどうすれば」
「再試までまだ二週間ある。二週間あれば間に合う。図書館に統計学の演習問題集があるから、それを三周やれ。三周やれば手順は入る。保証する」
「保証って、あなた誰ですか」
「四年の久瀬。統計学はギリギリで通った男。でも三周やったら通った」
嘘ではない。三十四年前に同じことをした。
女の子が少し笑った。泣きそうな顔で、でも笑った。
「……三周、やってみます」
「……まあ。頑張れ」
女の子が去っていった。図書館の方向に。
振り返って、祠を見た。
光が消えていた。
青い光。五分の未練。それが解消された。願い主本人が「やり直す」と決めたから。願いが叶ったのではない。願い主が願いを手放したのだ。自分の足で歩き出すことを選んだ。
これが神様案件の処理か。
派手さは何もない。女の子一人に声をかけて、演習問題集を勧めただけだ。それで祠の光が消えた。一件処理。
頭の中で数えた。
残り、九十八。
足りない。先が長い。
だが体育館の教室の時計は、もう巻き戻らないだろう。
史乃にメッセージを送った。
『解決した。時計は直るはず。お茶ありがとう』
返信が来た。
『えっ、もう解決したんですか!? 早い!! お茶いつでもどうぞ😊』
絵文字。三十年間、絵文字のない世界にいた。向こう側の文字体系には表意文字はあったが、笑顔のマークはなかった。
俺はスマホの画面を見つめて、少しだけ笑った。
こういう小さなものが、帰ってきたことの実感だった。