十件目の案件は、商店街の時計屋だった。
御影坂中央商店街。古い時計修理店。店主は六十代の男性、黒沢さん。修理した時計が、全て同じ時刻で止まるという相談。
「午後四時十二分で、全部止まるんです。直しても直しても」
午後四時十二分。
「何か心当たりは」
黒沢さんが少し黙って、言った。
「女房が——倒れた時刻です。二年前。脳梗塞で。店のカウンターで。時計の修理をしていた手が止まって、倒れた。四時十二分」
奥さんは一命をとりとめた。だが後遺症で右手が動かなくなった。時計の修理はもうできない。黒沢さんは一人で店を続けている。
願いの光が見えた。時計たちの内部、ムーブメントの中に、微かな白い光が溜まっている。「止まりたくない」ではない。「あの瞬間に戻りたい」でもない。
「あの瞬間を忘れたくない」。
黒沢さんの中にある恐怖。妻が倒れた瞬間。その記憶が、時計に染みている。修理のたびに、黒沢さんの手から時計に伝わっている。
「黒沢さん。奥さんの手、今どうされてます」
「リハビリしてます。少しずつ動くようになってきて。でも、時計の修理はもう」
「奥さんに、一つお願いしてもいいですか。店に来てもらえませんか。時計を触らなくていい。ただ、ここにいてもらうだけで」
翌日。黒沢さんの奥さんが店に来た。車椅子だった。右手は動かないが、左手で黒沢さんの腕に触れた。
「久しぶりね。お店」
「ああ。散らかしてて悪いな」
「あなたが散らかすのは今に始まったことじゃないでしょう」
奥さんが笑った。黒沢さんも笑った。
その瞬間——店内の時計が一斉に動き始めた。止まっていた秒針が回り始めた。カチカチカチ。時計の音が重なって、店全体が鳴っている。
白い光が散った。穏やかに。恐怖が、安堵に変わった。
四時十二分で止まっていた時計が、現在の時刻を刻み始めた。
「……動いた」
黒沢さんが呆然と時計を見ていた。
「動きましたね。もう大丈夫だと思います」
「あんた、何をしたんだ」
「俺は何もしてません。奥さんが来てくれただけです」
嘘ではない。俺がやったのは、奥さんに来てもらうことだけだ。願いを散らしたのは、黒沢さん自身の安堵だ。妻がここにいる。倒れたあの瞬間は過ぎ去った。時計は動き続ける。
十件目。完了。
帰り道。商店街を歩いた。
黒沢さんが追いかけてきた。
「久瀬さん。お代は」
「いりません」
「いや、何かお礼を。時計、一つ直しましょうか。何でもいい。持ってきてくれれば」
「時計は持ってないです」
「じゃあ、これ」
黒沢さんが紙袋を差し出した。中身は、商店街のパン屋のあんぱん。四個入り。
「女房が買っておけって言ったんです。『あの子、ちゃんと食べてなさそうだから』って」
あんぱんを受け取った。温かかった。焼きたてだ。
「……ありがとうございます」
十件の案件を処理して、報酬はあんぱん四個。向こう側では、仕事の報酬は食糧か安全な寝床だった。
悪くない。
午後。アパートに帰った。机の上にあんぱんを並べた。四個。
手帳を開いた。案件の記録。処理した十件を振り返った。
一件目、大学の祠。時計の巻き戻り。二件目、和菓子屋。温度の異常。三件目、川沿いの幽霊。四件目、大学実験棟。器具の暴走。五件目、猫の郵便。六件目、境内の六願同時発生。七件目、SNSの祈り。八件目、空き部屋の住人。九件目、図書館の迷子。十件目、時計屋。
これで何件目だろう。手帳の記録を数え直した。——十八件。残り八十二件。
十件やって、分かったことがある。
願いは、悪いものではない。暴走さえしなければ。人が何かを願うこと自体は、自然なことだ。問題は、願いが強くなりすぎたとき、現実との折り合いがつかなくなったとき。そのときに、案件が起きる。
俺の仕事は、願いを消すことではない。折り合いをつけること。
便利屋。
就活で使えるスキルではない。履歴書にも書けない。だが——向こう側で三十年やってきた仕事の延長線上にある。異世界でも俺は、争いの調停や利害の調整を担っていた。最強の戦士ではなく、話し合いで場を収める役。
便利屋は、俺に合っている。認めたくないが。
チャイムが鳴った。
「久瀬さん。いますか?」
史乃だった。
ドアを開けた。
「また来たのか」
「おにぎりと、あ、あんぱんがある。パン屋さんの?」
「黒沢さんからもらった」
「あんぱんが報酬なんですか」
「報酬というか、お礼」
史乃が上がった。マグカップは一つだが、最近は史乃が自分の紙コップを持参している。お茶を淹れた。
「久瀬さん。話があるんですけど」
「何だ」
「私、これからも手伝いたいんです。案件の処理。バイト感覚じゃなくて、ちゃんと」
予想していた言葉だった。史乃はここ数週間、ほとんど全ての案件に関わってくれている。情報収集。連絡先の確認。神社のネットワーク。
「危険だぞ。祭りの夜みたいなこともある」
「分かってます。でも、私がいたほうがいいでしょう。神社との連携もあるし。それに」
「それに?」
「一人でやってたら、久瀬さん、倒れますよ。あんぱんも食べずに」
反論できなかった。
「……まあ、助かる。頼む」
史乃が微笑んだ。ほっとした顔。断られると思っていたのかもしれない。
スマホが鳴った。理澄から。
『久瀬さん。祭りの夜のデータを分析しました。密度マップの改良版ができたので明日見せます。それと、一つ提案があります。願いの密度予測モデルを構築したいんですが、継続的にデータ提供してもらえませんか。久瀬さんの案件記録と、私のモデルを連携させたい。研究対象として興味があります』
研究対象として興味がある。
返信を打った。『いいぞ。明日の放課後、演習室で』
すぐに返事が来た。
『了解です。あと一つ。私の動機が純粋な学術的興味だけじゃないことは、気づいてると思いますが、今は言いません。データの話だけします』
理澄らしい。正直で、でも不器用。
史乃がスマホの画面を覗き込もうとしたので、消した。
「誰ですか」
「理澄」
「何て?」
「データの話」
「ふーん」
史乃の「ふーん」には情報量があった。深追いしないが、気にしている。
あんぱんを食べた。二人で。史乃は粒あんが好きで、俺はこしあんが好きだった。黒沢さんの奥さんは、ちゃんと二個ずつ入れてくれていた。
「美味いな」
「美味しいですね。報酬としては、悪くないかも」
「悪くない」
窓の外が暗くなっていた。十一月の終わり。日が短い。
史乃が帰ったあと、部屋の窓から外を見た。
商店街の明かり。街灯。マンションの窓から漏れる光。
——人影が見えた。
商店街の角。電柱の影に。小柄な人影。
目を凝らした。
玻璃だった。
古書街で見たときと同じ服装。白いブラウスに紺のスカート。古風な出で立ち。
窓越しに、視線が合った気がした。
玻璃が微かに頭を下げた。お辞儀のように。そして、角を曲がって消えた。
追いかけようとは思わなかった。追いかけても、たぶん捕まらない。玻璃は、そういう存在だ。
部屋に戻った。手帳を開いた。案件の記録の最後に、一行書き加えた。
「十件完了。報酬:あんぱん。備考:便利屋は続けていい気がする」
大学の掲示板には、就活関連のポスターが貼られているはずだ。「秋採用まだ間に合う!」「第二新卒歓迎!」。明日見れば、また焦るだろう。
でも今日は、あんぱんが美味かった。それでいい。
残り八十二件。
十二月が近い。冬が来る。
就活の窓が閉じていく。
でも、案件は止まらない。人が願い続ける限り。