翌日の夜、俺は祠に戻った。
私服に着替えた。スーツはもう着る気がしない。ジーンズにシャツ。靴はスニーカー。向こう側では革のブーツを十年履いた。底が減ると自分で張り替えた。スニーカーの底を自分で張り替える人間は、こっちの世界にはたぶんいない。
体育館の裏手。時刻は午後九時。キャンパスにはまだ人がいるが、この辺りには来ない。街灯の光が生垣の向こうで途切れて、祠の周辺は暗い。
暗い、が。
光っている。
昨日より強い。蛍のような淡い光が、祠の石の隙間から漏れている。色は薄い青。暖色ではない。これは未練の色だ。向こう側で学んだ分類法。願いは色を持つ。暖色は希望。寒色は未練。白は執着。赤は怒り。
青い願い。未練。「もう一度やりなおしたい」系統の光だ。
祠にしゃがんだ。苔むした石に触れる。冷たさの奥に、微かな振動がある。
閉じた目の裏に、断片が流れ込んできた。
教室。チャイム。ノート。赤点。追試。親に叱られる恐怖。友達に笑われる不安。単位。
単位だ。
誰かが、この祠に「単位が欲しい」と祈った。それ自体は大学の祠にはありふれた願いだろう。初詣に合格祈願をするのと変わらない。
だが、この願いは受け止められていない。
普通なら、祈りは神社や祠の管轄の存在が受け取り、処理する。叶えるのではない。受け止めて、現実との折り合いをつける。願いのエネルギーを吸収して、無害な形で散らす。
この祠は管轄外だ。忘れられた祠。どこの神様にも紐づいていない。だから願いが溜まる。溜まった願いは暴走する。
「触らないでください」
声がした。後ろから。女の声。
振り返った。
女の子が立っていた。俺と同い年くらい。いや、同い年だろう。大学生の雰囲気。だが服が白衣と赤い袴。巫女装束。
暗がりの中で、白い衣が妙に目立つ。
「あの、何してるんですか。こんな時間に」
「……祠を見てた」
「見てた? ここ、あんまり近づかないほうがいいんです。古い祠で、管理する人がいないから」
「管理する人がいない。それは知ってる」
女の子が首を傾げた。髪は黒くて長い。目が大きい。表情は穏やかだが、少しだけ探るような視線。
「あなた、見えるんですか。あの光」
見える。
俺が見えていることに、この子は気づいている。つまりこの子も見えている。
「見える。で、君は?」
「雨宮史乃です。御影坂神社でバイトしてます。巫女の」
「バイト」
「バイトです。時給千百円の。あ、でも今日は仕事じゃなくて、この祠、前から気になってて。たまに様子を見に来るんです」
巫女バイト。時給千百円。この世界では信仰も時給で換算される。向こう側では神殿の巫女は一生の職だったが。
——比べるな。
「雨宮さん。この祠、君の神社の管轄じゃないだろう」
「違います。御影坂神社の宮司さんに聞いたことがあるんですけど、昔はどこかのお社の末社だったみたいです。でもいつの間にかどこにも所属しなくなって。……野良の祠、って宮司さんは言ってました」
野良の祠。いい表現だ。飼い主のいない猫のように、どこの神にも属さない小さな祈りの受け皿。
「溜まってるよ。願いが。このままだと」
言いかけて、やめた。この子にどこまで話していいのか分からない。巫女バイトだと言っても、神様案件の仕組みを知っているとは限らない。
「このままだと、何ですか」
「……ちょっと変なことが起きるかもしれない」
「変なこと。たとえば?」
「たとえば、近くの教室で、時計が勝手に巻き戻るとか」
史乃の目が見開かれた。
「それ。それ、起きてます。体育館の隣の教室で。先週から、二時間目が始まると時計が五分巻き戻るって。教授が時計の故障だって言って、新しいのに替えたんですけど、新しい時計でも同じことが起きて」
やはりか。
願いが漏れ出している。「単位が欲しい」、その執念が、時間を巻き戻そうとしている。五分。テストの五分。あと五分あれば解けたのに。あと五分あれば書けたのに。
五分の未練が、教室の時計に染みている。
「久瀬です。久瀬恒一。同じ大学の四年」
「久瀬さん。あなた、普通の人じゃ、ないですよね」
「……普通だよ。大学四年で、就活に失敗してて、卒論も書いてない。めちゃくちゃ普通だ」
史乃が少し笑った。困ったような、でも温かい笑い方。
「普通の人は、祠の光が見えないです」
「……それはそうだな」
祠の光が、また揺れた。さっきより強い。
声がした。今度は史乃にも聞こえたらしい。彼女の肩がびくっと跳ねた。
声。祠の奥から。石の隙間から。
契約の残りは、九十九。
九十九。
昨日は「百」と言っていた。今日は九十九。一つ減った。
いつの間にか、一つ処理していたのか。昨日、祠に手を置いて「聞こえてるよ」と言ったとき、何かが完了した?
いや。あのとき、祠の光が一瞬強くなって消えた。あれは願いの一つが解放されたのか。
九十九。
残り九十九の案件を処理しなければ、俺は。
「久瀬さん? 顔色、悪いですよ」
「大丈夫。ちょっと数を数えてた」
「数?」
「残りの、面倒ごとの数」
九十九。
就活なんかしている場合ではないかもしれない。
祠の光が夜風に揺れている。十月の冷たい風。銀杏の匂い。遠くで電車の音がする。
史乃が隣に立っている。巫女装束の白が、祠の青い光を受けて淡く染まっている。
「あの」
「ん?」
「もし変なことが続くなら、私、手伝えることがあるかもしれません。御影坂神社の宮司さん、こういうことに詳しいので」
手伝い。
三十年間、一人で帰る方法を探した。最初の七年は完全に一人だった。協力者を得てからも、信頼できる人間は二人しかいなかった。
この世界に戻ってきて、初めて「手伝う」と言われた。
「……まあ。助かる」
史乃がもう一度笑った。今度は困った顔じゃなく、ただの笑顔だった。
祠の光が、少しだけ和らいだ。気のせいかもしれない。