小説置き場

第2話「祠の声」

2,330文字 約5分

翌日の夜、俺は祠に戻った。

 私服に着替えた。スーツはもう着る気がしない。ジーンズにシャツ。靴はスニーカー。向こう側では革のブーツを十年履いた。底が減ると自分で張り替えた。スニーカーの底を自分で張り替える人間は、こっちの世界にはたぶんいない。

 体育館の裏手。時刻は午後九時。キャンパスにはまだ人がいるが、この辺りには来ない。街灯の光が生垣の向こうで途切れて、祠の周辺は暗い。

 暗い、が。

 光っている。

 昨日より強い。蛍のような淡い光が、祠の石の隙間から漏れている。色は薄い青。暖色ではない。これは未練の色だ。向こう側で学んだ分類法。願いは色を持つ。暖色は希望。寒色は未練。白は執着。赤は怒り。

 青い願い。未練。「もう一度やりなおしたい」系統の光だ。

 祠にしゃがんだ。苔むした石に触れる。冷たさの奥に、微かな振動がある。

 閉じた目の裏に、断片が流れ込んできた。

 教室。チャイム。ノート。赤点。追試。親に叱られる恐怖。友達に笑われる不安。単位。

 単位だ。

 誰かが、この祠に「単位が欲しい」と祈った。それ自体は大学の祠にはありふれた願いだろう。初詣に合格祈願をするのと変わらない。

 だが、この願いは受け止められていない。

 普通なら、祈りは神社や祠の管轄の存在が受け取り、処理する。叶えるのではない。受け止めて、現実との折り合いをつける。願いのエネルギーを吸収して、無害な形で散らす。

 この祠は管轄外だ。忘れられた祠。どこの神様にも紐づいていない。だから願いが溜まる。溜まった願いは暴走する。

「触らないでください」

 声がした。後ろから。女の声。

 振り返った。

 女の子が立っていた。俺と同い年くらい。いや、同い年だろう。大学生の雰囲気。だが服が白衣と赤い袴。巫女装束。

 暗がりの中で、白い衣が妙に目立つ。

「あの、何してるんですか。こんな時間に」

「……祠を見てた」

「見てた? ここ、あんまり近づかないほうがいいんです。古い祠で、管理する人がいないから」

「管理する人がいない。それは知ってる」

 女の子が首を傾げた。髪は黒くて長い。目が大きい。表情は穏やかだが、少しだけ探るような視線。

「あなた、見えるんですか。あの光」

 見える。

 俺が見えていることに、この子は気づいている。つまりこの子も見えている。

「見える。で、君は?」

「雨宮史乃です。御影坂神社でバイトしてます。巫女の」

「バイト」

「バイトです。時給千百円の。あ、でも今日は仕事じゃなくて、この祠、前から気になってて。たまに様子を見に来るんです」

 巫女バイト。時給千百円。この世界では信仰も時給で換算される。向こう側では神殿の巫女は一生の職だったが。

 ——比べるな。

「雨宮さん。この祠、君の神社の管轄じゃないだろう」

「違います。御影坂神社の宮司さんに聞いたことがあるんですけど、昔はどこかのお社の末社だったみたいです。でもいつの間にかどこにも所属しなくなって。……野良の祠、って宮司さんは言ってました」

 野良の祠。いい表現だ。飼い主のいない猫のように、どこの神にも属さない小さな祈りの受け皿。

「溜まってるよ。願いが。このままだと」

 言いかけて、やめた。この子にどこまで話していいのか分からない。巫女バイトだと言っても、神様案件の仕組みを知っているとは限らない。

「このままだと、何ですか」

「……ちょっと変なことが起きるかもしれない」

「変なこと。たとえば?」

「たとえば、近くの教室で、時計が勝手に巻き戻るとか」

 史乃の目が見開かれた。

「それ。それ、起きてます。体育館の隣の教室で。先週から、二時間目が始まると時計が五分巻き戻るって。教授が時計の故障だって言って、新しいのに替えたんですけど、新しい時計でも同じことが起きて」

 やはりか。

 願いが漏れ出している。「単位が欲しい」、その執念が、時間を巻き戻そうとしている。五分。テストの五分。あと五分あれば解けたのに。あと五分あれば書けたのに。

 五分の未練が、教室の時計に染みている。

「久瀬です。久瀬恒一。同じ大学の四年」

「久瀬さん。あなた、普通の人じゃ、ないですよね」

「……普通だよ。大学四年で、就活に失敗してて、卒論も書いてない。めちゃくちゃ普通だ」

 史乃が少し笑った。困ったような、でも温かい笑い方。

「普通の人は、祠の光が見えないです」

「……それはそうだな」

 祠の光が、また揺れた。さっきより強い。

 声がした。今度は史乃にも聞こえたらしい。彼女の肩がびくっと跳ねた。

 声。祠の奥から。石の隙間から。

  契約の残りは、九十九。

 九十九。

 昨日は「百」と言っていた。今日は九十九。一つ減った。

 いつの間にか、一つ処理していたのか。昨日、祠に手を置いて「聞こえてるよ」と言ったとき、何かが完了した?

 いや。あのとき、祠の光が一瞬強くなって消えた。あれは願いの一つが解放されたのか。

 九十九。

 残り九十九の案件を処理しなければ、俺は。

「久瀬さん? 顔色、悪いですよ」

「大丈夫。ちょっと数を数えてた」

「数?」

「残りの、面倒ごとの数」

 九十九。

 就活なんかしている場合ではないかもしれない。

 祠の光が夜風に揺れている。十月の冷たい風。銀杏の匂い。遠くで電車の音がする。

 史乃が隣に立っている。巫女装束の白が、祠の青い光を受けて淡く染まっている。

「あの」

「ん?」

「もし変なことが続くなら、私、手伝えることがあるかもしれません。御影坂神社の宮司さん、こういうことに詳しいので」

 手伝い。

 三十年間、一人で帰る方法を探した。最初の七年は完全に一人だった。協力者を得てからも、信頼できる人間は二人しかいなかった。

 この世界に戻ってきて、初めて「手伝う」と言われた。

「……まあ。助かる」

 史乃がもう一度笑った。今度は困った顔じゃなく、ただの笑顔だった。

 祠の光が、少しだけ和らいだ。気のせいかもしれない。