祭りの夜だった。
御影坂神社の境内に、提灯の明かりが揺れている。屋台が並んでいる。焼きそば、たこ焼き、りんご飴、綿菓子、金魚すくい。煙と蒸気が混じった空気。人の声。子供の笑い声。太鼓の音。
向こう側にも祭りはあった。収穫祭。冬至祭。灯火祭。どれも違う匂いだったが、人が集まって騒ぐ空気感は同じだった。三十年ぶりの——日本の祭り。
「久瀬さん! こっちです!」
史乃が人混みの中から手を振っていた。今日は巫女装束ではなく私服だ。ベージュのワンピースに薄手のカーディガン。髪を下ろしている。
「バイトは?」
「午前中で終わりました。午後からは自由です。理澄ちゃんも来てます」
理澄が屋台の前で立っていた。りんご飴を持っている。食べるのではなく、じっと見つめている。
「……理澄。何してる」
「りんご飴の光の屈折率を見ていました。この飴のコーティング、かなり均一ですね。温度管理がいい」
「食べろよ」
「食べます。分析が終わったら」
三人で境内を歩いた。屋台の合間を縫って、本殿の前を通り、裏手の高台に出た。ここから境内全体が見渡せる。
提灯の光。人の波。煙。笑い声。
きれいだった。素直に。
「花火、八時からですよ」
史乃がスマホで時間を確認した。七時半。
「花火? 十一月に?」
「御影坂祭りの名物なんです。秋の花火。規模は小さいですけど、この高台から見ると綺麗なんですよ」
高台のベンチに三人で座った。史乃が左、理澄が右。俺が真ん中。
向こう側でも二人の仲間がいた。一人は戦士。一人は学者。二人に挟まれて焚き火を見ていた夜がある。——比べるな。ここはこっち側だ。
七時四十五分。空気が変わった。
宮司の言葉が蘇る。「祭りの夜は、神様が降りる」。
光が見えた。境内全体に、薄い金色の靄がかかっている。提灯の明かりではない。もっと微細で、空気そのものが光っているような。
「史乃。見えるか」
「……はい。光が、境内全体に」
「理澄は」
「見えません。でも、気温が三度上がりました。計測してます」
理澄がスマホの温度計アプリを見せた。外気温が七時の十一度から十四度に上がっている。十一月の夜に三度の急上昇は異常だ。
「願いの密度が上がってるんだな。祭りに集まった人たちの願い。屋台の前で『当たりますように』、おみくじで『いい年になりますように』、絵馬に書いた願い事。全部が重なって、境内の願い密度が跳ね上がってる」
「SNSの三百いいねどころじゃない。生身の人間が、同じ場所に集まって、一斉に願ってる」
理澄の理解が速い。
八時。
花火が上がった。
ドン、と腹に響く音。空に光が広がった。
赤。青。緑。金。小さな花火だが、夜空を彩るには十分だった。観客から歓声が上がった。子供たちが空を指さしている。
二発目。三発目。連続で上がった。色が混じり合い、夜空がキャンバスになった。
四発目が上がったとき、異変に気づいた。
花火の残像が消えない。
普通、花火の残像は数秒で消える。網膜に残る残像。だが、空に映った光の軌跡が、そのまま留まっている。赤い花が空に咲いたまま、消えずに浮かんでいる。
「久瀬さん、花火が」
「分かってる。消えない」
五発目。六発目。上がるたびに、残像が増えていく。空が花火の残像で埋め尽くされていく。
観客はまだ気づいていない。花火が綺麗だと思っている。残像が長いことを、演出だと勘違いしている。
だが、残像が動き始めた。
空に留まった花火の光が、ゆっくりと形を変えた。花から、円に。円から、渦に。渦が回転している。空全体が万華鏡のように変化していく。
「これ、案件ですか」
史乃の声が緊張している。
「案件だ。街レベルの。——祭りに集まった人間全員の願いが花火をトリガーにして暴走してる」
「全員?」
「花火を見て、みんなが同時に願った。『綺麗だな』『もっと見たい』『この瞬間が続いてほしい』。その"続いてほしい"が実現してる。花火の残像が消えない」
理澄がタブレットを取り出した。
「密度マップ、振り切ってます。境内の計測値が上限を超えてる。こんな数値、見たことない」
空の残像が、さらに変化した。
花火の光の中に、景色が映り始めた。
最初は御影坂の街並み。見慣れた風景。でも、古い。昭和の御影坂だ。木造の家屋。未舗装の道。看板の文字が右から左に書かれている。
次に、知らない場所が映った。知らない、いや。
心臓が止まった。
紫色の空。二重の月。石造りの建物。見覚えのある風景。
異世界だ。
俺が三十年間いた場所が、花火の残像の中に映っている。
「久瀬さん? 顔色が……」
「大丈夫だ。処理する。今すぐ」
立ち上がった。ベンチを離れて、境内の中央に向かった。人混みをかき分けて。
空を見上げた。花火の残像が回転している。異世界の風景がちらちらと映っては消える。この残像は、願いの密度が生んだ幻影だ。街全体の願いが集まって、この場所の時空の境界が薄くなっている。
過去の御影坂が見えるのは、「帰りたい」「やり直したい」という願いの集積。異世界の風景が映るのは、俺の存在が触媒になっている。俺の中にある異世界の記憶が、願いの密度に共鳴して外に漏れている。
処理しなければ。このまま密度が上がり続ければ、残像だけでは済まない。空間そのものが歪み始める。図書館の地下で起きたことが、街全体の規模で起きる。
だが、これは個人の願いではない。街全体の集合的な願いだ。一人と対話して解消できる案件ではない。
方法を考えろ。
向こう側で学んだ理論。集合的な願いの暴走を止めるには、流れを分散させる。一点に集中した密度を、複数の点に散らす。
「史乃!」
振り返った。史乃と理澄が追いついてきていた。
「神社の四隅にある灯籠、あれ、全部灯ってるか」
「灯籠? ええと、東と南は灯いてます。西は確か……」
「西と北を灯せ。四つ全部灯す。灯籠が願いの分散点になる。密度を四箇所に散らせば」
「分かりました!」
史乃が走り出した。巫女バイトで境内を知り尽くしている。
「理澄。タブレットの密度マップ、リアルタイムで見れるか」
「見れます。何をすれば」
「灯籠に火が灯ったら、密度の変化を教えてくれ。分散が始まっているかどうか」
「了解」
理澄がタブレットに目を落とした。指が画面を滑っている。
西の灯籠に火が灯った。史乃が火をつけている。
「西が灯きました。密度、五パーセント減少」
「足りない。北も」
二分後。北の灯籠にも火が灯った。
「北も灯きました。十二パーセント減少。効いてます」
だがまだ足りない。空の残像はまだ回転している。異世界の景色がちらついている。
俺自身が分散点にならなければ。
境内の中央で、両手を広げた。
異世界で覚えた技術。願いの流れを自分の体を通して地面に流す。避雷針のように。体に負荷がかかる。手が透ける可能性がある。だが、他に方法がない。
目を閉じた。
願いの光が、体に流れ込んできた。温かい。甘い。苦い。複雑な味がする。人間の願いは、一つひとつが異なる味をしている。
「綺麗だった」「また来年も」「子供が喜んでくれた」「あの人に会いたい」「やり直したい」「帰りたい」。
千の声が同時に聞こえた。祭りに来た人間全員の、小さな願い。
それを、受け止めて、地面に流した。体を通して。足の裏から大地へ。
光が散った。空の残像が、薄くなっていく。回転が遅くなる。異世界の景色が消えていく。紫色の空が消え、二重の月が消え、石造りの建物が消えた。
最後に残ったのは、花火の本来の光だけだった。赤と金の残像が、ゆっくりと消えていく。自然な速度で。
空が——夜に戻った。
星が見えた。十一月の星。
膝が震えていた。体から力が抜けていく。
「久瀬さん!」
史乃が駆け寄ってきた。俺の腕を掴んだ。
「大丈夫ですか、手、手が」
右手を見た。透けていた。向こうの景色が微かに見える。
五秒ほどで、元に戻った。実体が戻ってきた。
「……大丈夫だ。戻った」
理澄がタブレットを見せた。
「密度、正常値まで下がりました。久瀬さん、体の負荷は」
「問題ない。一晩寝れば治る」
嘘ではない。たぶん。
観客は何も気づいていなかった。花火が綺麗だったね、と言い合っている。残像が長かったのを「今年の花火は演出が凝ってる」と思っている。
それでいい。一般の人間が気づかない方が安全だ。
三人でベンチに戻った。座った。
史乃が缶のコーンスープを三つ持ってきた。自販機で買ってきたらしい。
「はい。温かいの飲んでください」
コーンスープを飲んだ。甘い。温かい。胃に染みた。
理澄がタブレットを閉じた。
「久瀬さん。さっき空に映っていた景色、あれは何ですか。昭和の御影坂じゃない方の。紫色の空のやつ」
見ていたのか。
「……遠い場所の風景だ。昔、俺がいた場所の」
「あなたがいた場所」
「ああ」
理澄はそれ以上聞かなかった。聞かないことを選んだ。理澄なりの距離感だ。
境内の人波が引き始めていた。祭りが終わりに近づいている。提灯の明かりが一つずつ消されていく。
史乃が隣で、コーンスープを両手で抱えて飲んでいた。
「久瀬さん」
「ん」
「今日、来てくれてよかったです」
「……まあ。来てよかった」
空を見上げた。花火の残像はもう消えていた。ただの夜空。十一月の星。
だが一瞬、本当に一瞬だけ、紫色の空が見えた気がした。
気のせいだろう。たぶん。
残り八十三件。祭りの夜に四つ処理した。