正確に言えば、夏祭りではない。
十一月下旬。御影坂神社の秋の例大祭。地元では「御影坂祭り」と呼ばれている。規模は小さい。屋台が十五軒ほど出て、地元の子供が綿菓子を買い、年寄りが甘酒を飲む。そういう祭りだ。
史乃からバイトの手伝いを頼まれた。
「人手が足りないんです。準備だけでいいので、お願いします🙏」
断る理由がなかった。就活は停滞中だ。案件もここ数日は静かだ。それに、頼まれたら断れない性格は、三十年の異世界生活でも直らなかった。
御影坂神社。鳥居をくぐると、境内は祭りの準備で慌ただしかった。
テントの骨組み。提灯の配線。奉納品の搬入。地元の氏子会のおじさんたちが脚立に登っている。
「久瀬さん! こっちです!」
史乃が巫女装束で手を振っていた。白い上衣に朱色の袴。髪を後ろで束ねている。
向こう側でも巫女に似た役職はあった。神殿の侍女だ。白と赤の衣服を着て、儀式の補佐をする。——こっちの巫女装束のほうが、ずっと綺麗だ。比べるものではないが。
「何を手伝えばいい」
「奉納品の並べ替えをお願いしたいんです。本殿の脇にお供え物を並べるんですけど、これが、毎年大変で」
本殿の脇。木製の台座が三つ並んでいる。台座の上に、酒、米、塩、野菜、果物、菓子。奉納品が段ボールに入って積まれている。
「決まった順番で並べるんですか」
「はい。宮司さんから指示書が出てて」
史乃が紙を広げた。手書きの配置図。かなり細かい。酒は左から大吟醸、純米、本醸造の順。米は新米を中央に。塩は粗塩のみ。野菜は根菜を手前、葉物を奥。
「面倒だな」
「祭祀の基本なんです。順番が違うと、お供えの意味が変わるって」
並べ始めた。段ボールから一つずつ取り出して、指示書通りに配置する。
三十分ほどかけて、ほぼ並べ終わった。最後の果物、みかんを台座の右端に置いて、史乃と一緒に確認した。
「よし。完璧だ」
「ありがとうございます。あ、私、ちょっとテントのほう見てきますね。すぐ戻ります」
史乃が小走りに去っていった。袴の裾が風にはためいた。
俺は台座の前に残された。奉納品を眺めた。酒。米。塩。野菜。果物。菓子。
——何かがおかしい。
酒の順番が違っていた。左から大吟醸、純米、本醸造だったはずが、本醸造、大吟醸、純米になっている。
並べ間違えたか。いや、確認した。間違いなかった。
視線を落とした。米の位置も変わっている。新米が中央ではなく右端に移動している。
誰かが動かした? 俺が目を離したのは、一分もない。その間に。
みかんが動いた。
目の前で。
台座の右端に置いたみかんが、するすると滑って左端に移動した。物理的にはあり得ない。台座は平らだ。傾斜はない。
案件だ。
光が見えた。台座の下から、淡い金色の光が滲み出ている。温かい色。怒りでも執着でもない。もっと、几帳面な光。秩序の色。「こうあるべきだ」という信念。
奉納品を、「正しい順番」に並び替えている。——だが、この「正しい順番」は、指示書の順番ではない。
史乃が戻ってきた。
「久瀬さん、奉納品が、あれ? 並べ直したんですか?」
「俺じゃない。勝手に動いた」
「え?」
みかんがまた動いた。今度は史乃の目の前で。左端から中央へ。するする。
史乃が固まった。
「……動いてる」
「案件だ。奉納品の並べ方に、誰かの願いが干渉してる」
「誰かの?」
「この神社で長年奉納を管理していた人間の、習慣が残ってるんだと思う。自分の知っている"正しい順番"に、奉納品を戻そうとしてる」
史乃の顔が変わった。
「……それ、先代の宮司さんじゃないですか」
「先代?」
「今の宮司さんのお父さん。五年前に亡くなりました。先代は、奉納品の並べ方にすごくこだわる人だったって聞いてます。『順番を間違えると神様に失礼だ』って」
五年前に亡くなった先代宮司。その人の、奉納品へのこだわりが、神社の台座に染みついている。毎年の祭りで、同じ場所で、同じ作業をした。何十年も。
その反復が、願いになった。「正しく並べなければならない」。
「先代の並べ方と、今の指示書の並べ方、違うのか」
「たぶん、違います。今の宮司さんは、もっと簡略化してるんです。昔は手順がもっと細かかったって」
つまり、先代の「正しい順番」と現宮司の「正しい順番」が食い違っている。先代の残留願いが、現在の配置を「間違い」と認識して、自分の知っている正しい順番に戻そうとしている。
「史乃。先代の配置の記録は残ってるか」
「宮司さんに聞いてみます」
史乃が本殿に走っていった。五分ほどで戻ってきた。古いノートを持っている。
「ありました。先代の手書きの配置図。見てください、現在の指示書とここが違います」
二枚の配置図を並べた。違いは三箇所。酒の順番。米の位置。みかんの置き場所。
今、奉納品が勝手に移動している方向は、先代の配置図通りだった。
「先代の配置で並べ直せば、止まると思う」
「でも、今の宮司さんの指示書と違いますよ」
「宮司さんに聞いてみよう。先代のやり方に戻して問題ないか」
宮司が来た。七十代。白い衣冠。痩せた体。鋭い目。この人は、俺を見たとき「道返しの者が来たか」と呟いた人だ。
「宮司さん。奉納品が動くんですが」
「動くか。今年もか」
「毎年?」
「毎年ではないが、祭りの年には時々な。親父の、先代のやり方と違うと、動く」
宮司は知っていた。
「直しているのか。毎年」
「直す年もある。直さない年もある。今年は、あんたがいるからな。任せる」
宮司が去っていった。説明もなく。
「……まあ、雑だな」
「宮司さん、ああいう人なんです」
史乃と二人で、先代の配置図に従って奉納品を並べ直した。酒の順番を変え、米の位置を中央に戻し、みかんを右端から左の手前に移した。
金色の光が——穏やかになった。満足したように。
みかんが、もう動かなくなった。
「止まりましたね」
「ああ。先代が満足したんだろう」
史乃がノートを見つめていた。先代の手書きの文字。丁寧な楷書。
「先代の宮司さん、奉納品一つひとつに、意味を書いてるんですね。酒は感謝、米は実り、塩は清め。みかんは——『再び会えることへの祈り』」
再び会えることへの祈り。
みかんが「再会」の意味を持つことは知らなかった。丸い実が、黄金色に熟す果物。「みかん」。「未完」ではなく「蜜柑」。でも、再会の祈りか。
「いい祭りだな。この神社」
「好きなんです。この神社。だからバイトしてるんですけど」
日が暮れていた。境内に提灯の明かりが灯り始めた。電球式だが、暖かい色。
準備が一段落して、社務所の縁側に座った。史乃が缶のお茶を二つ持ってきた。
「お疲れ様です」
お茶を受け取った。温かい。ほうじ茶。香ばしい匂い。
境内を見下ろした。提灯の明かりが並んでいる。屋台の骨組み。テント。明日にはここに人が集まり、綿菓子と甘酒の匂いが漂い、子供が走り回る。
「久瀬さん。祭り、明日来ますか」
「来る。たぶん」
「"たぶん"じゃなくて来てください。宮司さんが、あなたにいてほしいみたいです」
「宮司さんが?」
「さっき言ってました。『祭りの夜は気を張っておけと、あの男に伝えておけ』って」
気を張っておけ。
「何か起きるのか」
「分かりません。でも宮司さんが、こうも言ってました」
史乃が少し躊躇って、言った。
「『祭りの夜は、神様が降りる』」
神様が降りる。
この街で、祭りの夜に。
缶のお茶を飲んだ。ほうじ茶の温かさが、胃に落ちた。
境内の提灯が風に揺れていた。金色の光。先代の宮司が守ってきた秩序。今の宮司が引き継いだ場所。史乃がバイトしている神社。
俺が案件を処理している街。
明日の夜。何が起きるか分からない。でも、ここにいる。
「来る。明日。たぶんじゃなく」
史乃が笑った。提灯の明かりに照らされた笑顔が、柔らかかった。
「じゃあ明日。お祭り、楽しみましょう。案件があっても、なくても」
残り八十七件。
明日の夜、数が変わるかもしれない。