小説置き場

第17話「図書館地下の迷い路」

4,148文字 約9分

理澄の密度マップは、思った以上に精密だった。

 翌日の放課後。工学部の演習室で、理澄がプロジェクターにマップを映した。御影坂市の地図の上に、願いの密度を推定したヒートマップが重ねてある。

「これ、どうやって作った」

「三つのデータソースを重ね合わせました。第一に、久瀬さんの案件処理記録。場所と日時。第二に、この街のSNS投稿から願望系のキーワードを抽出した分布図。第三に……」

「第三に?」

「御影坂神社の過去五年分のお守り販売記録と絵馬の内容記録。史乃さんに頼んで、匿名化したデータをもらいました」

「……史乃と繋がってたのか」

「久瀬さんの案件で連絡先を交換してから、ときどき情報交換してます。問題ですか?」

「いや。むしろいい」

 マップには赤い点が密集しているエリアが三つあった。

 古書街。駅前再開発エリア。そして、大学図書館の地下。

「古書街と駅前は分かる。案件が多い場所だ。でも図書館の地下は」

「ここです」

 理澄が地図を拡大した。大学図書館の平面図が表示された。地下一階。書庫。

「地下書庫のBエリア。民俗学と宗教学の書架があるあたり。SNSデータとは無関係で、お守りの販売データとも関係ありません。純粋に、久瀬さんの案件処理のパターンから、ここに密度の異常が推定されました」

「俺のデータから?」

「久瀬さんが案件を処理した場所と、次の案件が発生した場所には空間的な相関があります。一件処理すると、半径三百メートル以内に次の案件が発生しやすい。その相関を逆算すると、まだ処理されていない案件の所在地を推定できる」

 理澄が俺を見た。眼鏡の奥の目が、知的好奇心で輝いている。

「行きますか? 確かめに」

「今から?」

「今からです。閉館まであと四時間あります」

 大学図書館。四階建て。地下一階は閉架書庫になっている。学生証があれば入れるが、利用者は少ない。薄暗い廊下にスチール製の書架が並んでいる。

 地下に降りた。階段を下りると、空気が変わった。向こう側では、地下は魔物の領域だった。温度が二度ほど低い。紙の匂いが濃い。古い接着剤と埃の混じった、図書館特有の匂い。

 Bエリア。民俗学と宗教学。書架の番号が壁に貼ってある。B-21からB-35。

「このあたりですね」

 理澄がタブレットの地図と照らし合わせている。

 光は、見えない。今のところ。空気が少し重い気はするが、明確な案件の気配はない。

 書架の間を歩いた。古い本が並んでいる。背表紙が色褪せた専門書。民俗学概論。信仰と社会。祭祀の構造。

 B-27の棚の前で、理澄が立ち止まった。

「ここ、ちょっと……」

「何だ」

「入ったとき、出口がどっちだったか一瞬分からなくなりました。——いえ、気のせいかもしれません」

 気のせいではない。

 俺も同じことを感じていた。B-27の書架に入った瞬間、方向感覚が微かにぶれた。左右どちらから入ったのか、一瞬だけ不確かになった。

 向こう側で何度も経験した感覚だ。空間の歪み。場所の記憶が干渉して、物理的な空間が曲がる。

「理澄。念のため、出口を確認してくれ」

「え?」

「今、来た方向に戻れるか確認してくれ」

 理澄がきびすを返した。B-27の書架の端まで歩いて、止まった。

「……久瀬さん」

「どうした」

「行き止まりです。壁があります」

 振り返った。理澄の後ろに、コンクリートの壁がある。来たときには通路があった場所だ。

 反対側を見た。そっちにも、壁。

 書架の列に挟まれた、五メートルほどの通路。両端が壁。天井は低い。蛍光灯が白い光を落としている。

 閉じ込められた。

「案件だ」

「……案件」

 理澄の声は、驚くほど落ち着いていた。少し強張っているが、パニックはない。

「状況を整理します。私たちはB-27書架に入った。入ったときは両端に通路があった。今は両端が壁。物理的にはあり得ない。つまり空間が歪んでいる」

「正解だ」

「原因は」

「願いだ。この場所に願いが溜まってる。おそらく、長い間」

 蛍光灯が一瞬、ちらついた。書架の本が微かに振動した。

 光が見えた。

 淡い光。青白い。棚の奥から滲み出ている。本の背表紙の隙間から、壁から、床から。

 青白い光は、懐かしさの色ではない。執着でもない。もっと純粋な色だ。「もっと知りたい」「もっと学びたい」。知識欲。学問への渇望。

 これは——

「理澄。この書架の本を見てくれ。どんな本がある」

 理澄が棚を見回した。背表紙を一つずつ読んでいく。

「民俗学関連が中心ですね。あ。ここに貸出カードが挟まってる。古い。日付が……」

「何年だ」

「一九九三年。三十二年前。借りた人の名前は、藤堂泉美。工学部とは書いてありますが、卒業年度は……九五年卒?」

 一九九三年。三十二年前。

 その学生は、もう卒業している。とっくに。

「卒業生の願いだな」

「卒業生?」

「三十二年前に、この書架で勉強していた誰かが、もっと勉強したかった。もっとここにいたかった。卒業したくなかった。そういう願いが、ここに残ってる」

 理澄が黙った。眼鏡のフレームに手を触れた。考え込むときの癖だ。

「三十二年間、図書館の書架に願いが閉じ込められていた」

「そうだ。普段は影響が小さいから、誰も気づかない。でも密度が上がれば、こうなる。空間が閉じる。願いの主がいた場所から出られなくなる。『ここにいたい』が、文字通り実現している」

「脱出方法は」

「願いを解消する。卒業生に、『ここを離れてもいい』と思わせる。直接会えなくても、願いの構造を崩せば」

「構造を崩す?」

「この場所が"完璧な勉強場所"であることを崩す。理澄、棚の本を一冊出してくれ」

「どれですか」

「何でもいい。棚から抜いて、違う場所に入れる。順番を崩す」

 理澄が眉を上げたが、従った。棚から一冊、『祭祀組織の比較研究』を抜き取り、三つ隣の棚に差し込んだ。

 青白い光が揺れた。

「もう一冊」

 理澄がもう一冊移動させた。『地域信仰の社会学的分析』を反対側の棚へ。

 光が強くなった。抵抗するように。嫌がっている。秩序が乱されることを。

「もう三冊。一気に」

 理澄が三冊、ばらばらの位置に差し替えた。

 光が、震えた。

 そして声が聞こえた。微かな声。女性の声。若い。

 ——もう少し。もう少しだけ。

 三十二年前の声だ。卒業を前にした学生の声。もう少しだけ、ここで勉強していたい。この棚の前で、この本を読んでいたい。もう少しだけ。

「三十二年は、もう十分だと思う」

 声に向かって言った。

 理澄が俺を見ている。声は聞こえていないはずだが、俺が誰かに話しかけていることは分かるだろう。

「三十二年分の"もう少し"は、もう十分だ。——読みたかった本は、まだここにある。でも、あんたはもう卒業した。卒業して、外に出て、たぶん別の場所で本を読んでる。ここに縛られなくていい」

 青白い光が、薄れた。ゆっくりと。蛍光灯のちらつきが収まった。

 壁が消えた。通路が戻った。

 理澄が振り返った。

「……戻りました。通路が」

「ああ。案件処理完了」

「今、誰かと話してましたか」

「願いの声が聞こえた。三十二年前の学生の声」

 理澄が少し考えて、タブレットにメモを取った。

「音声知覚もあるんですね。視覚だけじゃなく」

「初めてじゃないが、珍しい。声が聞こえるのは、願いが強い場合だけだ」

 棚を見回した。移動させた本を元に戻した。理澄も手伝った。元の順番通りに。

 最後の一冊を棚に戻したとき、理澄が声を上げた。

「久瀬さん。これ」

 理澄が指さしたのは、棚の最奥部。壁との隙間に、薄い本が一冊落ちていた。

 拾い上げた。

 表紙は、見覚えのない素材だった。紙ではない。革でもない。もっと薄く、もっと硬い。何かの植物の繊維を圧縮したような質感。

 表紙に文字が刻まれていた。

 日本語ではなかった。英語でも中国語でもロシア語でもない。

 異世界の文字だった。

 心臓が止まりそうになった。

 この文字を、俺は読める。三十年間使っていた文字だ。

 表紙に書いてあるのは——『帰還術の手引き 第三巻』。

 なぜ。なぜこれが、ここにある。大学の図書館の、地下書庫の、棚の裏に。

 手が震えた。本を開いた。中のページも異世界の文字で書かれている。図解がある。魔法陣のような記号。帰還術の理論の一部。

 俺が異世界で研究していたのと同じ分野の、異なるアプローチの書物。

 これは、偶然ではない。

「久瀬さん? 大丈夫ですか」

 理澄の声で我に返った。

「……まあ、大丈夫だ」

「その本、何語ですか。見たことのない文字ですけど」

「……読めない言語の本だ。古い」

 嘘はついていない。理澄には読めない。

「図書館の蔵書じゃないですよね。管理ラベルもバーコードもない」

「ない。誰かが置いていったものだと思う。ずっと前に」

 三十二年前の学生、藤堂泉美。その人が置いたのか。それとも、もっと前から。

 本を鞄にしまった。道返しの紙片と、玻璃の本の隣に。鞄が重くなっていく。

 地下書庫を出た。階段を上がった。一階のロビーに出ると、夕方の光が窓から差し込んでいた。

 理澄が立ち止まった。

「久瀬さん」

「ん」

「閉じ込められてるとき、怖くなかったですか」

「怖い?」

「出られなくなったんですよ。空間が歪んで。普通なら、怖いでしょう」

 怖くなかった。異世界では、もっとひどい空間の歪みに何度も遭遇した。比べるのも失礼なくらい穏やかな案件だった。

 でもそう言えば、理澄がどう感じるか。五十二歳の経験値で二十二歳の女の子の恐怖を「大したことない」と切り捨てるのは。

「少し怖かった。理澄は?」

「私は、怖くなかったです。久瀬さんがいたから」

 理澄がそう言って、すぐに目を逸らした。

「データ上、久瀬さんの案件処理成功率は今のところ百パーセントですから。統計的に信頼できる同行者です」

 早口だった。照れ隠しだと気づくのに、五十二年分の人生経験は必要なかった。

「ありがとう。理澄」

「礼を言われることじゃないです。帰りますか」

「ああ」

 図書館を出た。キャンパスの銀杏並木が夕日に染まっていた。黄色い葉が赤い光に透けて、オレンジ色に見えた。

 理澄が隣を歩いている。タブレットを抱えて、何かメモを打っている。指が速い。

「理澄。密度マップのデータ、明日もう一回見せてくれ」

「更新してから見せます。今日の図書館のデータも入れますから」

「頼む」

 鞄の中の異世界の本が、ずしりと重い。

 この街の地下に、異世界の欠片が埋まっている。

 残り八十八件。