小説置き場

第16話「古書街の胡散臭い午後」

3,304文字 約7分

常盤堂に、また行った。

 玻璃の本を読み終えた。『社寺縁起と氏子契約の研究』。薄い本だったが、中身は重かった。神社と氏子の間に結ばれる「契約」の歴史。祈りと対価。奉納と庇護。道返しの契約に直接言及はなかったが、その周辺を照らすような記述が散りばめてあった。

 報告がてら、本を返しに行くつもりだった。返すのか手元に置くのか決めていなかったが、とにかく玻璃の顔が見たかった。

 ——いや、顔が見たかったは語弊がある。話がしたかった。あの手紙の消印のこと。俺の住所を知っていたこと。この本を渡したタイミングのこと。

 古書街に着いたのは午後三時過ぎだった。

 十一月の古書街は、空気が乾いている。紙の匂いが風に乗って流れてくる。並んだ棚に文庫本、新書、画集、専門書。値札の手書きの文字がどれも個性的だ。

 常盤堂の前まで来た。

 入り口の前に、男が立っていた。

 三十代半ば。中肉中背。コートのポケットに両手を突っ込んでいる。髪は短く、少し脂ぎっている。目つきは鋭いが、どこか胡散臭い。言葉を選ばないなら、いかがわしい。

 男が常盤堂の看板を見上げていた。何か探しているような目つき。

 俺は男の横を通り過ぎて、店に入ろうとした。

 男が振り返った。

「——あんた。見えるだろ」

 足が止まった。

「何が」

「とぼけなくていい。あんたの目。こっち見たとき、一瞬だけ焦点がずれた。普通の人間はそういう目をしない。光が見えてるな」

 光。願いの光。

 この男は、光の存在を知っている。

「誰だ」

「蓬莱。蓬莱修二。願いの仲介者をやってる」

「願いの仲介者」

「拝み屋とか、霊能者とか、そういう類の商売だよ。おれの場合は願いに特化してるけどな。叶えるんじゃなくて、願いを持ってる人と、願いを処理できる人をつなぐ。仲介。マッチング」

 蓬莱と名乗った男が、コートのポケットから名刺を取り出した。安っぽい紙に、手刷りの文字。「蓬莱修二 願いの仲介・相談」。住所はない。携帯番号だけ。

「……怪しすぎるだろ」

「自覚はある。でもまあ、食っていかなきゃならんからな」

 蓬莱が肩をすくめた。悪びれた様子はない。

「仲介者っていうのは、何をやるんだ」

「言った通りだよ。この街には、願いが溜まる。おれにはそれが分かる。正確には、見えるわけじゃない。おれには光は見えない。でも、勘が利くんだ。願いが濃い場所に行くと、頭痛がする。片頭痛。ズキズキ来る」

「頭痛」

「ああ。ガキの頃からだ。人混みに行くと頭が痛くなる。医者には偏頭痛だと言われた。でも違う。人混みじゃなくて、願いが密集してる場所が駄目なんだ」

 願いの密度を身体で感知している。光としてではなく、痛みとして。向こう側では、似たような体質の人間は探知兵として重宝されていた。

 向こう側にもそういう人間がいた。魔力を感知できるが制御できない体質。探知能力はあるが、戦闘能力はない。

「で、おれは長いことこの感覚を商売にしてきた。願いが濃い場所を見つけて、困ってる人を探して、解決できそうな人間に繋ぐ。坊さんとか、拝み屋とか、神主とか。——でもな」

 蓬莱の顔が渋くなった。

「ほとんどがインチキなんだよ。この業界。祈祷料取って、お札渡して、何も変わらない。おれが繋いだ先がハズレだったことが何度もある。それで、本物を探してた」

「本物」

「案件を処理できる人間。願いの暴走を止められるやつ。この街にいるって噂を聞いた。古書街の近くで最近、祠の光が消えた。大学で時計が巻き戻る現象が止まった。駅前のマンションの幽霊が消えた。ぜんぶ同じ人間の仕業だろ」

 俺のやったことだ。全部。

「あんたか」

 否定する理由がなかった。蓬莱は願いの存在を知っている。俺が処理した案件の情報を持っている。嘘をついても意味がない。

「……まあ。そうだ」

 蓬莱の目が光った。獲物を見つけた顔。だがすぐに、その光は抑えられた。営業スマイルに変わった。

「やっぱりな。おれと組まないか。おれが案件を見つけて、あんたが処理する。ウィンウィンだ」

「断る」

「即答かよ」

「案件は自分で見つけてる。困ってない」

「でもな、あんた。おれはこの街の願いの地図を持ってるんだ。どこに何が溜まってるか。季節ごとの変動。曜日ごとの傾向。二十年分のデータがある。頭痛で記録したやつだけどな」

 二十年分のデータ。

 理澄が聞いたら目の色を変えそうだ。

「二十年?」

「中学から。中学のとき、初めて頭痛の法則に気づいた。駅前の神社の前を通ると痛くなる。でも裏道を通ると平気。じゃあ何が違うのか」

 蓬莱が語り出した。手振りが大きい。話し好きだ。

 要約すると、蓬莱は中学時代から御影坂の願いの密度を体感で記録し続けていた。最初はノートに。やがてスマホのメモアプリに。地図上に頭痛の強度をマッピングしている。

 本人に案件を処理する能力はない。見えないし、触れない。ただ、どこに願いが溜まっているかを嗅ぎ当てる。

「おれは犬みたいなもんだ。匂いを嗅ぐだけ。噛みつけない」

「自分で言うか」

「自覚は大事だろ。でな、あんた。一つ聞いていいか」

「何だ」

 蓬莱の目が、急に真剣になった。営業スマイルが消えた。

「あんた、道返しの契約者か」

 心臓が跳ねた。

「……知ってるのか。その言葉を」

「おれの婆さんが拝み屋だった。婆さんから聞いた。道返し——帰れなくなった人間を、神様が帰す契約。代わりに、百の願いの乱れを整える義務を負う。果たせなければ……」

「器になる」

「そうだ。帰還神の器。婆さんは、昔この街にもう一人いたと言ってた。道返しの契約者が。何十年も前に」

 何十年も前。

 俺の前にも契約者がいた。この街に。

「その人はどうなった」

 蓬莱が目を逸らした。

「……知らない。婆さんは言わなかった。ただ、『あの人は帰れなかった』とだけ」

 帰れなかった。百の案件を処理できなかったのか。それとも——別の理由があったのか。

 風が吹いた。古書街の通りを、冷たい風が通り抜けた。十一月の風。紙の匂いと一緒に、微かな光の気配が流れた。

 蓬莱が名刺をもう一枚差し出した。

「組む気がなくても、連絡先だけ持っておいてくれ。おれが嗅ぎつけた案件の情報、流すから。無料で。最初はな」

「最初は、って」

「そりゃ商売だからな。いずれは何かもらうよ。でも今は、投資期間だ」

 蓬莱が笑った。胡散臭い笑みだが、悪意はない。商売人の笑みだ。生きるために嗅覚を商品にしている男。

 名刺を受け取った。ポケットに入れた。

「蓬莱。一つ聞く」

「何だ」

「この街の願いの密度。最近、上がってるか」

 蓬莱の顔が曇った。

「……上がってる。ここ半年くらい。特に、大学周辺。古書街。再開発エリア。頭痛の頻度が増えてる。鎮痛剤の消費量が倍になった」

「原因は」

「分からん。でも、おれの勘だけで言うなら、何かが動き始めてる。この街の下で。願いの流れ自体が変わってきてる」

 理澄も同じことを言っていた。「この街、願いが叶いやすすぎませんか」。

 偶然ではない。何かが動いている。

「情報があったら連絡する。じゃあな、契約者さん」

 蓬莱がコートの襟を立てて、古書街を歩いていった。歩き方が妙に軽い。頭痛持ちとは思えない足取りだ。

 常盤堂の前に一人残された。

 玻璃は、今日もいなかった。

 店に入った。店主の老人が顔を上げた。

「また来たね。玻璃は出てないよ」

「最近、見てないんですか」

「ああ。一週間くらい来てないな。珍しいことだが、あの子はときどきそうする。ふらっと消えて、ふらっと戻ってくる」

 ふらっと消えて、ふらっと戻ってくる。

 玻璃の存在自体が、不確かだ。

 本を返そうとした。

「いや、持っておきな。玻璃がそう言うと思う」

 本を鞄に戻した。

 古書街を出た。駅に向かって歩いた。ポケットの中に蓬莱の名刺。鞄の中に玻璃の本と道返しの紙片。

 仲介者。道返し。前の契約者。

 俺以外にも、この街の願いに関わっている人間がいる。俺だけの問題ではない。

 この街は、願いで動いている。

 残り八十九件。

 街の下で何かが動いている。

 スマホが鳴った。理澄から。

 『久瀬さん。願いの密度マップの初期版ができました。明日見せます。予想以上に偏りがあります。古書街と駅前が異常に高い。あと、大学の図書館の地下が変です』

 図書館の地下。

 また新しい案件の気配だ。