小説置き場

第15話「常盤堂の秋暮れ」

2,625文字 約6分

常盤堂に行った。

 玻璃の手紙に「読んでほしい本がある」と書いてあった。三日前の消印。あの手紙を受け取ったのは二週間前だが、行く暇がなかった。就活とエントリーシートと案件処理で。

 古書街。夕方。十一月の日はもう短い。四時で空が暗くなり始める。

 常盤堂の店先。棚にいつもの古書が並んでいる。百円の文庫本。三百円の専門書。

 中に入った。薄暗い。紙とインクの匂い。

 玻璃は、いなかった。

 代わりに、店主の老人がカウンターにいた。白髪。七十過ぎ。眼鏡。

「いらっしゃい。ああ、あんた。玻璃が言ってた子かい」

「玻璃さんは」

「今日は出てないよ。本だけ預かってる。あんたに渡してくれって」

 店主がカウンターの下から本を取り出した。薄い冊子。古い。表紙が茶色く変色している。

 手に取った。タイトルは『社寺縁起と氏子契約の研究』。

 縁起と契約。社寺の由来と、氏子との関係。

 中を開いた。序文に目を通した。「本稿は、日本各地の神社に伝わる縁起書と、氏子組織との間に結ばれた契約的関係について考察するものである」。

 契約的関係。神社と氏子の間の契約。

 玻璃はなぜ、この本を俺に。

「あの、玻璃さんは何か言ってましたか。この本について」

「『道返しの研究の続き』だって言ってたよ。意味は分からんがね」

 道返し。帰還の契約。

 この本には、帰還の契約に関する手がかりが含まれているのか。

 本を買おうとした。

「いらない。玻璃が代金はいいと言ってた」

「また、ですか」

「あの子はときどきそうする。本に相手を選ぶ、みたいなことを言ってた。あんた、選ばれたんだろ」

 常盤堂を出た。本を鞄に入れた。

 スマホが鳴った。知らない番号。

「もしもし。久瀬さんですか。御影坂神社で番号を教えてもらったんですが」

 四十代くらいの男性の声。困っている声だ。

「中村と言います。実は、うちの神棚のことで相談したいんですが」

「神棚」

「はい。去年、引っ越したんです。実家を出て、マンションに。そのとき神棚は処分したんです。ちゃんとお焚き上げに出して。なのに——」

 声が震えた。

「新しいマンションの押し入れに、神棚が入ってるんです。処分したはずの。同じやつが。何度捨てても——戻ってくるんです」

 案件だ。

 翌日。中村さんの自宅。御影坂駅から北に十分。築十年のマンション。三LDK。

 中村さんは四十三歳。サラリーマン。妻と子供二人。三年前に実家の父親が亡くなり、実家を売却して引っ越した。

「父が、信心深い人だったんです。毎朝神棚に手を合わせてた。榊を替えて、お水を供えて。毎日」

「中村さんは」

「俺は……やってないです。正直、興味がなかった。父が亡くなったとき、母に神棚どうする?って聞いたら、もう要らないって。だから処分した」

 押し入れを開けた。

 中に、神棚があった。

 小さな木の棚。三十センチほど。お札が立っている。色あせた注連縄。古い榊の枯れた葉。

 光が見えた。白い光。微かだが、執着の色ではない。もっと穏やかだ。祈りの光。毎日手を合わせた人間の、長い年月の祈りの残滓。

「これ、お父さんの」

「はい。実家にあったのと同じものです。お焚き上げに出したはずなのに……」

「何度戻ってきましたか」

「四回。最初は偶然かと思った。引っ越し業者の手違いかと。でも二回目、三回目、四回目は、鍵をかけた押し入れの中に突然現れた」

 中村さんの奥さんが廊下から顔を出した。不安そうな顔。子供たちは学校に行っている。

「処分しないでほしいんです。あれ」

 奥さんが言った。

「え?」

「だって、お義父さんのでしょう。毎朝手を合わせてたんでしょう。処分するから戻ってくるんじゃないの」

 中村さんが黙った。

 奥さんの直感は、たぶん正しい。

「中村さん。この神棚、お父さんの祈りが染みてます。長い年月の分。処分しようとしても、祈りの力が戻してしまう」

「祈りの力って……」

「信じてもらえなくても構いません。でも事実として、四回捨てて四回戻ってきた。五回目に捨てても、たぶん戻ります」

「じゃあどうすれば」

「捨てなければいい」

 中村さんが俺を見た。困惑した顔。

「でも、俺、信仰とか分からないんです。毎朝手を合わせるとか、できない。父みたいには」

「毎朝じゃなくていい。週に一回でもいい。月に一回でもいい。——ただ、置いておくだけで」

「置いておくだけ?」

「ああ。押し入れの中じゃなくて、どこか、高い場所に。棚の上とか。光が入る場所に」

 中村さんは奥さんを見た。奥さんが頷いた。

「リビングの棚の上、空いてるでしょう。あそこに置きましょう」

 神棚をリビングに移した。棚の上。南向きの窓の近く。光が差し込む場所。

 神棚を置いた瞬間、白い光がふわりと広がって——散った。穏やかに。怒りでも執着でもなく、安堵のように。

 ここにいていいのだ、と。

「お父さんの祈りは、場所を探してたんだと思います。処分されて、行き場がなくなって。戻ってくるしかなかった」

 中村さんが神棚を見つめていた。

「……親父。こんなところまでついてきたのか」

 その声は、少しだけ、優しかった。

 帰り際。玄関で靴を履いていると、中村さんが声をかけてきた。

「久瀬さん。一つ聞いてもいいですか」

「何ですか」

「あの神棚の中に、紙が一枚入ってたんです。古い紙。何が書いてあるか分からなくて」

「……まあ、見せてもらえますか」

 中村さんが紙片を持ってきた。

 古い和紙。折り畳まれている。向こう側では、こうした古文書は術式の設計図だった。開いた。

 墨で文字が書いてある。達筆だが古い書体で、すぐには読めない。

 だが——一つの単語が目に飛び込んできた。

 「道返し」。

 心臓が跳ねた。

「これ、お借りしてもいいですか」

「構いませんけど。大事なものですか」

「たぶん。大事なものだと思います」

 紙片を丁寧に鞄にしまった。玻璃の本の隣に。

 帰り道。商店街を歩きながら、頭の中が回転していた。

 神棚の中の古い紙片。「道返し」の文字。これは偶然か。玻璃が今日、あの本を俺に渡したタイミングと、神棚の案件が重なったのは、偶然か。

 玻璃は知っていたのか。この案件が来ることを。だから本を用意していた。「道返しの研究の続き」として。

 あの少女は、何者だ。

 スマホが震えた。史乃から。

 『久瀬さん! 宮司さんが「そろそろ話がしたい」って言ってます。明日の午後、空いてますか? 🙏』

 宮司。「道返しの者が来たか」と呟いた老人。

 偶然が重なりすぎている。

 あるいは、偶然ではない。

 残り八十九件。数が減るたびに、見えてくるものがある。

 鞄の中の古い紙片が、ずしりと重かった。