小説置き場

第13話「空き部屋の帰宅音」

3,264文字 約7分

史乃から相談を受けた。

「久瀬さん。駅前のマンションで、ちょっと困ったことが起きてるみたいなんです」

 御影坂駅の南口。再開発エリア。古い商店街があった場所に、五年前から新しいマンションが建ち始めている。十階建て。ガラス張りのエントランス。オートロック。このあたりでは新しいほうの建物だ。

「四階の角部屋。空室なんですけど、中から生活音がするって、隣の住人が管理会社に苦情を出してるんです」

「不法侵入?」

「管理会社が確認したら、鍵はかかってたし、中に人はいなかったそうです。でも、テーブルの上に湯呑みが置いてあった」

「湯呑み」

「洗ったばかりの。水滴がまだ残ってたって」

 管理会社は「前の清掃スタッフの忘れ物」で片付けようとしたらしい。だが隣の住人は納得していない。壁の向こうから足音がする。椅子を引く音がする。時刻は決まって夕方六時。

「夕方六時。帰宅の時間だな」

「そうなんです。前の住人が帰ってきてるみたいに、って。隣の方は怖がってて」

 前の住人。空室ということは、退去している。退去した人間の生活パターンが、部屋に残っている。

 願いの残留。三件目に処理した川沿いの幽霊と同じ構造だ。「ここにいたい」という願いが、場所に染みついている。

「見に行くか」

「はい。管理人さんに話はつけてあります」

 マンションのエントランスに着くと、管理人が待っていた。六十代の男性。白い作業着。鍵の束を持っている。

「雨宮さんの紹介の方ですか。正直、管理会社には『気のせいでしょう』と言われてるんですが」

「気のせいかどうか、確認させてください」

 エレベーターで四階へ。角部屋の前。ドアは普通のマンションのドア。金属製。表札はない。

 管理人が鍵を開けた。

 中に入った。

 ワンルーム。十畳ほど。フローリング。窓が大きい。南向き。日当たりがいい。部屋は空だった。家具はない。壁も床もきれいだ。クリーニング済み。

 だが、匂いがあった。

 線香ではない。もっと日常的な匂い。味噌汁の匂い。ほんの微かに。

 そして光。

 部屋の中央に——淡い光が漂っていた。暖色。オレンジ。懐かしさの色。帰りたい、ではない。もっと直接的だ。「ここにいたい」。

「史乃。見えるか」

 史乃が頷いた。彼女にも光が見えている。

「温かい色ですね。悪い感じはしないけど……」

「悪い感じはしない。でもこのまま放っておくと、光が強くなる。いずれ隣の部屋にも影響が出る」

 管理人は光が見えていない。俺たちが部屋の中央を見つめているのを、不思議そうに見ている。

「管理人さん。この部屋の前の入居者の情報、分かりますか」

「前の入居者……ええと。六十八歳の女性でした。一人暮らし。三年くらい住んでらっしゃったんですが、半年前に退去されまして」

「退去の理由は」

「老人ホームに入られたと聞いてます。お子さんがいらっしゃって、そちらの判断で」

 六十八歳。一人暮らし。三年間住んだ部屋を、自分の意思ではなく家族の判断で離れた。

 老人ホームに入る。安全で、介護が受けられて、合理的な判断だ。でも、この部屋が好きだったのだろう。南向きの窓。日当たり。味噌汁を作って、湯呑みでお茶を飲んで、夕方六時に帰ってくる生活。

 三年間の日常が、部屋に染みついている。向こう側では、住んだ場所を離れるたびに何かを失った。ここでは失くしたものが残り続けるのだった。

「前の方の連絡先、分かりますか。ご家族でもいいんですが」

「管理会社に聞けば……でも、個人情報ですから」

「史乃」

「はい。私から神社経由で聞いてみます。三年住んでらっしゃったなら、初詣くらいは来てたかもしれないです」

 史乃の足の速さには助かっている。神社のネットワークは、この街では意外と広い。

 翌日。史乃が連絡先を見つけてきた。前の入居者、田村さんのお子さんの電話番号。

 電話をかけた。

「はい。田村です」

 四十代くらいの女性の声。

「突然すみません。御影坂神社の関係者です。お母様の田村……」

「母に何かあったんですか」

「いえ。お母様は御影坂にお住まいのとき、駅前のマンションに……」

「ああ。あのマンション。母、すごく気に入ってたんです。離れたくないって泣いて」

「……泣いた」

「ええ。でも一人暮らしは無理だったんです。膝が悪くて。転んだこともあって。——心を鬼にして、老人ホームに入ってもらいました」

 田村さんの娘さんの声は、少し硬かった。正しい判断をしたという自覚と、それでも後ろめたさが残っている声。

「お母様は今、お元気ですか」

「元気は元気です。でも、ときどき、あのマンションの話をするんです。窓から見えた銀杏がきれいだったとか。夕方に日が差し込んで、部屋が全部オレンジ色になったとか」

 部屋が全部オレンジ色。

 今、その部屋に漂っている光の色と同じだ。

「一つお願いがあるんですが。お母様に、伝えてもらえませんか。あの部屋は、ちゃんときれいなままです。窓も銀杏もそのままです。お母様の部屋は、なくなっていません」

 電話の向こうで、沈黙があった。

「……ありがとうございます。伝えます。母、喜ぶと思います」

 電話を切った。

 それだけでは、たぶん足りない。願いを解消するには、願い主本人の気持ちの転換が必要だ。でも、六十八歳の女性に「諦めろ」とは言えない。あの部屋が好きだった気持ちは、正しい。

 帰りたい場所がある。そこにはもう住めない。でも、その場所はなくなっていない。

 折り合いをつける。叶えるのではなく。

 三日後。管理人から連絡があった。

「あれから、隣の住人からの苦情が止まりました。音がしなくなったって」

「よかった」

「それと、不思議なことがあったんです。空室の部屋に入ったら、窓辺に花が一輪置いてあった。コスモス。誰が入れたか分からないんですが」

 コスモス。秋の花。

 田村さんのお母さんが、あの部屋に花を飾っていたのかもしれない。窓辺に。南向きの光の中に。

 残留願いが完全に消えたわけではない。だが——薄らいだ。「ここにいたい」が、「ここにいたことを覚えている」に変わった。執着が記憶になった。

「管理人さん。そのコスモス、しばらく置いておいてもらえませんか」

「構いませんが、枯れたらどうします」

「枯れたら片付けてください。それで大丈夫です」

 花が枯れる頃には、願いも散っているだろう。

 史乃と帰り道を歩いた。駅前の再開発エリア。新しいマンションと、取り壊し途中の古い建物が隣り合っている。

「久瀬さん。あの管理人さんが言ってたんですけど」

「ん?」

「『こういうこと、前にもあったんです』って。五年前に別の棟でも、空室から生活音がするって苦情があったそうです」

「五年前にも」

「再開発が始まった頃。古い家が壊されて、新しいマンションが建って。住人が入れ替わった時期。入れ替わった人たちの気持ちが、残ったんでしょうか」

 再開発。古い街が消えて、新しい街ができる。物理的には更新される。でも——土地の記憶は更新されない。

 御影坂は、願いが集まる街だ。帰りたい願い。やり直したい願い。ここにいたい願い。再開発で人が動けば、動いた分だけ「ここにいたい」が残る。

「この街、案件、減らないかもしれないな」

「そうですか?」

「人が暮らす限り、願いは生まれる。願いが生まれる限り、案件は起きる。処理しても処理しても——」

「終わらない?」

「……終わらないかもしれない」

 残り九十件。減っている。だが新しい案件も生まれている。

 史乃が隣を歩いている。足音が規則的だ。一歩、一歩。

「終わらなくても、いいんじゃないですか」

「いいのか」

「だって、願いがなくなったら寂しいでしょう。人が何も願わなくなったら」

 史乃らしい言い方だった。

 願いがなくなったら寂しい。五十二年生きてきて、そういう発想はなかった。願いは問題の種だ。暴走の原因だ。処理すべき案件だ。

 でも、史乃の言う通りかもしれない。願いがあるから、人は動く。帰りたいから、帰る。やり直したいから、やり直す。ここにいたいから、花を飾る。

「……まあ、そうかもな」

 銀杏並木の下を歩いた。十一月の風。葉が散っている。

 窓辺のコスモスが、まだ咲いている気がした。