理澄から連絡が来た。
『久瀬さん。学内でまた変なことが起きてます。食堂の前に来てください。データ見せます』
昼休み。食堂の前のベンチ。理澄が待っていた。タブレットを抱えて、眼鏡の奥の目が真剣だ。
「これ、見てください」
タブレットに画面が表示されていた。大学のSNS、学内の掲示板のような匿名投稿アプリ。
投稿が一つ、赤い丸で囲まれている。
『彼氏欲しい。まじで。誰でもいいから。神様お願い🙏』
いいねが三百十二。学内の投稿としては異常な数字だ。
「これが問題?」
「問題はこの投稿じゃなくて、投稿した人に起きていること。この投稿者、たぶん経済学部の三年生。投稿の翌日から、見知らぬ男が彼女の後をつけ始めたんです」
「ストーカー?」
「ストーカーっぽいんですけど、おかしいんです。その男、警備員に捕まったとき、自分が何で女の子を追いかけてるか説明できなかった。『気づいたらここにいた』って」
気づいたらここにいた。
願いの引力だ。
「誰でもいいから」——そのフレーズが問題だ。特定の相手を指名しない願い。不特定多数に開かれた願い。しかもSNSに投稿されて、三百十二人がいいねを押した。
向こう側で学んだ理論。願いにはベクトルがある。特定の対象に向かう願いは収束する。不特定の対象に向かう願いは拡散する。拡散した願いは、近くにいる人間を引き寄せる。
三百十二のいいねが、拡散を加速した。いいねは共感だ。共感は願いの密度を上げる。「彼氏欲しい」に三百十二人が共感した。その三百十二人分の「分かる」が、元の願いに重なった。
結果、願いの引力が強くなりすぎて、物理的に人間を引き寄せた。
「……SNSが増幅装置になってる」
「増幅装置?」
「願いの。いいねが共感のエネルギーだとしたら、三百十二のいいねは、三百十二人分の願いの上乗せだ。元の投稿者の願いが三百倍になってる」
理澄が目を細めた。メモを取っている。タブレットのノートアプリに、指で高速入力している。フリック入力。俺の三倍は速い。
「つまり、SNSの投稿が、願いの増幅装置として機能している。いいねの数に比例して、願いの実現圧が上がる」
「そういうことだ。祠に一人で祈るのと、SNSに投稿して三百人に共感されるのとでは、エネルギーが桁違いだ」
「じゃあバズった投稿は……」
「やばい。理論的には。万単位のいいねがついた願い事が実在したら、街レベルの案件になる」
理澄の顔がこわばった。
「それ、定量的に分析できませんか。いいねの数と願いの実現確率の相関」
「できるかもしれないが、今はまず、この女の子の案件を処理する」
投稿者を探す必要があった。匿名投稿だが、理澄は特定済みだった。
「投稿時間のIPログと学内Wi-Fiのアクセスポイントのログを照合しました。投稿時間に該当エリアにいた端末を……」
「待て。それ合法か」
「学内ネットワーク管理の観点からは、グレーです」
「グレーか」
「限りなく黒に近いグレーです」
理澄に罪悪感はなさそうだった。データが取れるなら取る。それがこの子の倫理だ。向こう側の学者連中にも似たタイプがいた。
——比べるな。
投稿者は経済学部三年の女子学生。名前は橋本さん。講義後のキャンパスで話を聞くことになった。
理澄が声をかけた。俺がいきなり話しかけるよりは自然だ。
「すみません、橋本さん。ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「え、何? 鷺沢さん……と、そちらは?」
「同じ大学の久瀬です」
橋本さんは小柄で、髪を染めていて、スマホケースにキーホルダーがたくさんついていた。見るからに今どきの大学生だ。
「あの、変な人につきまとわれてるって聞いたんですけど」
橋本さんの顔が曇った。
「うん。もう三日目で。警備員さんに捕まえてもらったけど、また違う人が来て、昨日は二人。なんか、私の方に吸い寄せられてくるみたいに」
吸い寄せられる。まさにその通りだ。
「橋本さん。最近、SNSに何か書いた? 願い事みたいなこと」
橋本さんが目を丸くした。
「……あ。あの投稿。『彼氏欲しい』ってやつ? 冗談半分で書いたんだけど、まさか関係ある?」
「ある。たぶん」
「えっ。でもただの投稿だよ? みんな書いてるじゃん。願い事とか。冗談で」
冗談。この街では、冗談の願いでも力を持つ。御影坂は願いが集まる土地だ。しかもSNSの増幅効果がかかっている。
「橋本さん。あの投稿、消せる?」
「消すの? いいねめっちゃついたのに」
「いいねがついたから問題なんだ。信じてもらえないかもしれないけど、あの投稿が、人を引き寄せてる原因だと思う」
橋本さんは俺と理澄を交互に見た。信じていない顔。当然だ。
理澄が一歩前に出た。
「橋本さん。私は工学部です。非科学的なことを言うつもりはありません。でもデータ上、あなたの投稿時刻と、つきまとい被害の開始時刻に有意な相関があります。投稿を消して、被害が止まるかどうか。実験だと思ってくれませんか」
理系の説得。感情ではなくデータ。
橋本さんが少し考えて、スマホを取り出した。
「……消すだけでいいの?」
「消すだけでいい」
橋本さんの指が画面をタップした。削除の確認。「はい」。
投稿が消えた。
俺の目に、見えた。橋本さんの周りに薄くまとわりついていたオレンジ色の光が、散った。風に吹かれた花びらのように、四方に散って消えていった。
三百十二人分のいいねが、解放された。
「消えた?」
理澄が聞いた。俺にしか見えないものを、理澄は聞いて確認する。
「消えた。これで明日から、つきまといは止まるはずだ」
橋本さんはまだ半信半疑の顔をしていた。
「ほんとに止まるの?」
「止まる。でも、橋本さん。一つだけ」
「何?」
「次から願い事を書くときは、もうちょっと具体的に書いたほうがいい。『誰でもいい』は、範囲が広すぎる」
橋本さんが少し笑った。
「何それ。願い事のアドバイス?」
「……まあ、そんなもんだ」
橋本さんが去っていった。友達に手を振りながら。軽い足取りで。
残された俺と理澄は、ベンチに座った。
理澄がタブレットにデータを入力している。
「久瀬。一つ確認したいんですけど」
「何だ」
「いいねの数と願いの強度が比例するなら、この街のSNS上には、今この瞬間にもたくさんの願いが増幅されてるってことですよね」
「ああ」
「祠に溜まる願いだけじゃない。SNSにも溜まってる。しかもSNSのほうが、拡散速度が速い」
理澄が俺を見た。眼鏡の奥の目が、怖いくらい真剣だった。
「この街、願いが叶いやすすぎませんか」
御影坂。「帰りたい」「やり直したい」の願いが集まる土地。そこにSNSという増幅装置が加わった。祠や神社に静かに溜まっていた願いが、デジタルの速度で拡散し、増幅される。
答えは、分かっている。
「叶いやすいんじゃない。願いが強くなりすぎてるんだ。この街は。——で、強くなりすぎた願いが暴走すると、案件になる」
「案件が増えるということ?」
「増える。たぶん」
残り九十一件。——いや、増えるのか。減らしている端から、新しい案件が生まれている。
夕暮れの風が吹いた。銀杏の葉が舞った。十一月。季節が進んでいる。
理澄がタブレットを閉じた。
「久瀬。私、この街の願いの密度をマッピングしてみたいんですが。SNSの投稿データと、あなたの案件処理記録を重ねれば……」
「やりたきゃやれ。ただし俺のデータを使うなら、一つ条件がある」
「何ですか」
「見つけたことは、俺にも教えろ」
理澄が少し笑った。珍しい。
「それくらい当然です」
キャンパスの銀杏並木を歩いた。二人で。向こう側では、並んで歩ける相手は戦場の仲間だけだった。黄色い葉が地面に散っている。踏むとくしゃっと音がする。
十一月の御影坂。願いが、デジタルの翼で飛ぶ時代の——神様案件。