小説置き場

第11話「アパートの昼下がり」

3,035文字 約7分

目が覚めたら、昼だった。

 天井が見えた。白い天井。染みもヒビもない。アパートの六畳間。見慣れた天井。向こう側では石造りの天井を三十年見ていた。雨漏りの染みが地図みたいで、あれはあれで——。

 やめよう。

 体が重い。文字通り重い。布団から起き上がるのに、三十秒かかった。腕に力が入らない。昨日、境内で六つの願いを同時に処理した。その代償だ。

 スマホを見た。十一時四十分。日曜日。

 大学は休み。助かった。昨日が金曜なら、今日の授業を休む言い訳を考えなければならなかった。

 ——いや、休むこと自体に言い訳は要らないのか。大学四年の後期。出席が必要な授業はほとんど残っていない。卒論だけが重くのしかかっている。

 キッチンに立った。冷蔵庫を開けた。水。牛乳。卵が二個。以上。

 向こう側では食糧の確保に七年かかった。あの頃に比べれば、冷蔵庫に卵が二個あるだけで天国だ。だが、今日は卵を割る気力もなかった。

 水を飲んで、布団に戻った。

 天井を見つめた。

 六つの願い。あの光が胸に触れた感覚が、まだ残っている。温かかった。最後の白い光だけが冷たかった。「やりなおしたい」。誰かの執着。あれを散らすのに、いちばん力を使った。

 体が透けた。手だけでなく、胸まで。史乃の手が、俺をすり抜けた。

 あの瞬間——消えるかもしれない、と思った。

 消える。この世界から。向こう側に戻るのではなく、どこにもいなくなる。帰還が完了していない俺は、力を使いすぎると、存在そのものが薄れる。

 玻璃の言葉が蘇る。「まだ完全には帰れていないでしょう?」

 帰れていない。分かっている。分かっているが、どうすればいいのかが分からない。

 チャイムが鳴った。

 無視しようかと思った。宅配なら不在票を入れてくれる。

 もう一度鳴った。そして——声。

「久瀬さん。起きてますか」

 史乃だった。

 布団から出た。玄関まで三歩。ドアを開けた。

 史乃が立っていた。私服。白いカーディガンにジーンズ。手にコンビニの袋を持っている。

「あ、起きてた。よかった。おにぎり、買ってきました」

「……なんで」

「なんでって。昨日のあれ、消耗してるでしょう。食べてなさそうだなと思って」

 見透かされている。

「……上がるか?」

 言ってから気づいた。この部屋に人を入れたことがない。こっちに戻ってきてから、一度も。

「お邪魔します」

 史乃が靴を脱いで上がった。

 六畳間。見回す史乃の目が、一瞬止まった。

「……引っ越してきたばかり、みたい」

 それが正直な感想だったのだろう。

 机が一つ。パイプ椅子が一つ。布団。本棚。以上。壁には何もかかっていない。カーテンは入居時に備え付けだった白いやつ。キッチンには最低限の食器。マグカップが一つ。箸が一膳。

 生活感がない。四年住んでいる部屋とは思えない。実際、俺の体感では四年ではない。ここを出て、三十年間異世界にいて、戻ってきた。戻ってきてからまだ数ヶ月。荷物が増える時間がなかった。

「四年住んでるんですよね、ここ」

「……ああ。まあ」

「マグカップ、一個だけ?」

「客が来ないから」

 史乃が袋からおにぎりを取り出した。鮭と梅。二個ずつ。合計四個。

「二人分?」

「私もまだ食べてないんです。一緒に食べていいですか」

 パイプ椅子を史乃に渡して、俺は床に座った。布団の上。机を挟んで、向かい合う形になった。

 おにぎりの包装を開けた。コンビニのおにぎり。海苔のパリパリした音。

 一口食べた。

 鮭。米。海苔。塩。それだけの味が、ひどく美味かった。

 向こう側では米がなかった。麦に似た穀物はあったが、米の味とは程遠かった。帰ってきて最初に食べたのがコンビニのおにぎりで、あのとき泣きそうになった。今は泣かない。でもやっぱり美味い。

「美味いな」

「コンビニのおにぎりですよ?」

「コンビニのおにぎりは美味いんだ。信じてくれ」

 史乃が笑った。何がおかしいのか分からないまま笑っている顔。

 二個目。梅。酸っぱい。この酸っぱさも三十年ぶりだ。

 食べ終わった。

 沈黙があった。居心地の悪い沈黙ではない。ただ、次の言葉が見つからない時間。

「久瀬さん」

「ん」

「昨日のこと、聞いてもいいですか」

「昨日の?」

「手が透けたこと。体が、すり抜けたこと。あれは、何なんですか」

 真っ直ぐな問い。追い詰める響きはない。ただ知りたい。心配だから知りたい。そういう声だった。

「……長い話になる」

「大丈夫です。日曜ですし」

 窓の外を見た。秋の空。雲が高い。向こう側の空は紫だったが、こっちの空は、青い。当たり前のことが、ときどきひどく新鮮に感じる。

「俺は、遠いところに行ってた。長い間」

「遠いところ」

「ここじゃない場所。この世界じゃない場所に。三十年」

 言った。初めて、はっきりと口にした。

 史乃は黙って聞いていた。おにぎりの包装を丁寧に畳みながら。

「三十年間、一人で帰る方法を探してた。最初の七年は完全に一人だった。帰る手がかりもなかった。言葉も通じなかった。食べるものを見つけるだけで精一杯だった」

 止まらなくなった。

 三十年分の、誰にも話していないことが、おにぎりの温かさに解かされるように出てきた。全部は話せない。話す気もない。だが、少しだけ。

「十一年目に、協力者が見つかった。二人。信頼できる仲間だった。そこからは少し楽になった。帰還術の研究を本格的に始められた。実験を四十七回やった。四十六回失敗した。最後の一回で、帰ってきた」

「……帰ってきた」

「ああ。こっちでは時間がほとんど経っていなかった。大学の単位も残ってた。冷蔵庫の牛乳は腐ってたけど」

 史乃が小さく笑った。笑ったが、目は笑っていなかった。真剣な目で、俺を見ていた。

 泣くだろうか、と思った。こういう話を聞いたら、泣く人もいる。

 史乃は泣かなかった。

「大変だったんですね」

 それだけ言った。

 泣かなかった。大げさな反応もしなかった。「かわいそう」とも「信じられない」とも言わなかった。

 大変だったんですね。

 その一言が、ちょうどよかった。ちょうどよくて、だから効いた。

 俺は天井を見た。白い天井。染みのない、きれいな天井。

「……まあ、大変だった」

 自分の声が、思ったより掠れていた。

 史乃は何も言わなかった。もう一度、おにぎりの包装を畳んでいた。丁寧に、きれいに。何かをする手を止めない人だ。泣かない代わりに、手を動かし続ける人。

 しばらくして、史乃が立ち上がった。

「また来ますね。おにぎり持って」

「……毎回来なくていい」

「来たいから来るんです」

 反論できなかった。

 史乃が帰ったあと、部屋が広く感じた。六畳が十二畳くらいに感じた。人がいなくなった空間は、いつもよりがらんとして見える。

 ——三十年間、ずっとこうだったんだよな。

 夕方、ポストを見に行った。

 封筒が一通。宛名は手書き。「久瀬恒一様」。差出人、常盤堂古書店 久我玻璃。

 開けた。便箋が一枚。小さな文字。丁寧だが、少し古風な書き方。

「次はいつ来ますか? 読んでほしい本があります。 玻璃」

 それだけだった。

 短い手紙。だが、俺の住所を知っているはずがない。古書店で名前すら名乗っていないのに、住所を。

 便箋を裏返した。何もない。封筒を見た。切手が貼ってある。消印がある。普通に郵送されている。だが、消印の日付が、今日ではなかった。

 三日前だった。

 玻璃が手紙を出したのは、境内で願いが暴走する三日前。俺が倒れることを、知っていたかのように。

 便箋を机の上に置いた。玻璃の本の隣に。

 窓の外では、日が暮れかけていた。秋の夕暮れは短い。もうすぐ冬が来る。

 おにぎりの味が、まだ口の中に残っていた。