それは土曜日の夕方に起きた。
御影坂神社の境内。七五三の参拝客がちらほらいる時間帯。史乃が社務所でお守りを売っている。俺は境内の端のベンチに座って、玻璃からもらった本を読んでいた。
ここで読むのが習慣になりつつある。境内は空気が澄んでいて、願いの残滓が適度に流れている。図書館より集中できた。向こう側で、聖域の近くで研究をしていた頃の感覚に似ている。
——比べるな。
風が変わった。
最初は風だと思った。秋の風がひときわ強く吹いて、銀杏の葉が舞い上がった。だが、違う。風じゃない。
空気が、震えている。
本から顔を上げた。境内を見回した。参拝客は気づいていない。手水舎で手を洗っている親子連れ。賽銭箱の前で手を合わせている老婆。ベンチでスマホを見ている高校生。誰も異変を感じていない。
だが俺には分かる。
願いが——来る。
一つじゃない。複数。同時に。
境内のあちこちから、小さな光が立ち上っていた。薄い青。淡い橙。微かな白。色が違う。つまり、願いの種類が違う。別々の人間の、別々の祈り。
三つ。いや、四つ。五つ、六つ。
多い。今まで処理してきた案件は一つずつだった。一人の願い主と対話して、願いの行き先を調整する。それが俺のやり方だった。
だが今、六つの願いが同時に発生している。
なぜ。
答えはすぐに分かった。七五三だ。参拝客が多い。普段は疎らな境内に、今日は何十人もの人間がいる。親が子の成長を祈る。子が親の笑顔を願う。老人が健康を祈る。高校生が受験を祈る。
小さな祈り。一つ一つは微かな光。だが御影坂の土地は、「帰る」「戻す」「やりなおす」の願いが集まりやすい。普通の祈りに、土地の性質が共鳴して、増幅されている。
光が、俺に向かって集まってきた。
体が動く前に、光が来た。
最初の一つが胸に触れた。温かかった。「子供が元気に育ちますように」。単純で、まっすぐな願い。これは処理しなくていい。自然に散らせばいい。
二つ目。「母の腰が治りますように」。これも温かい。だが少し、重い。長年の願い。何度も祈られてきた分、密度がある。
三つ目。四つ目。立て続けに来る。
俺は立ち上がっていた。本が地面に落ちた。両手を開いた。向こう側で覚えた作法。願いを受け止めるときの姿勢。手のひらを上に向けて、呼吸を整えて。
五つ目が来たとき、体に異変が起きた。
右手が透けた。
透ける、という現象は前にもあった。願いを処理したあとに、一瞬だけ。だが今回は違う。右手だけではない。手首から肘にかけて、皮膚の下に秋の空が透けて見えている。
「久瀬さんっ!」
史乃の声がした。社務所から飛び出してきた。巫女装束の裾がはためいている。
「手が、手が透けてます!」
「分かってる。大丈夫。まだ……」
六つ目が来た。
白い光。「やりなおしたい」。誰かの切実な祈り。これが一番重い。白は執着。手放せない想い。
体の透明が広がった。右腕だけでなく、胸の辺りまで。自分の胸の向こうに、境内の銀杏が見えた。内臓を通過して景色が見えるという、ありえない視界。
「久瀬さん、やめてください! 受け止めなくていいです!」
史乃が駆け寄ってきた。俺の腕を、透けている腕を掴もうとした。手が、すり抜けた。
史乃の目が見開かれた。
掴めない。俺の腕を、彼女の手がすり抜けた。
「——大丈夫だ」
自分に言い聞かせた。大丈夫。向こう側ではもっとひどい状況を切り抜けた。三十年のうちの三回、死にかけた。あれに比べれば。
六つの光を、整理した。頭の中で。温かい順に並べて、処理が必要なものとそうでないものを分ける。
一つ目と二つ目。自然に散らす。祈りとして受け止められれば十分だ。
三つ目と四つ目。小さな未練。方向を調整して、現実と折り合えるように回す。
五つ目。少し重い。だが願い主が近くにいる。処理というより、見守ればいい。
六つ目。白い執着。これだけは。
手を握った。透けている手を、意志の力で握りしめた。白い光が手の中で抵抗した。
「——聞こえてるよ」
祠のときと同じ言葉を、呟いた。
白い光が震えた。そして、散った。花びらのように。十月の境内に、白い光の欠片が舞った。参拝客には見えない。史乃には、見えていた。目を大きく開いて、光の花びらを見ていた。
六つ。全部処理した。
体が。
膝が折れた。ベンチに手をつこうとしたが、手がベンチをすり抜けた。地面に膝をついた。膝は、かろうじて地面に触れた。まだ足は透けていない。
「久瀬さん!」
史乃がしゃがんで、俺の顔を覗き込んだ。
「大丈夫です。大丈夫ですから。もう受け止めないで」
「……ああ。終わった。もう、終わった」
透明が、ゆっくり引いていった。右手の先から。肘。肩。胸。五分ほどかけて、体が元に戻った。
息が荒い。全力疾走したあとのような疲労感。向こう側で丸一日走り続けたときより、いや、違う種類の疲労だ。体力ではなく、存在そのものが削れている。
「久瀬さん。これ、飲んでください」
史乃がペットボトルの水を渡してくれた。受け取った。手が震えている。蓋を開ける指に力が入らない。
史乃が黙って蓋を開けてくれた。
水を飲んだ。冷たい。十月の水。こんなに美味い水は、向こう側の湧き水以来だ。
——比べるな。
境内の端で、人の気配がした。
見上げた。銀杏の木の向こう、鳥居の近くに、玻璃が立っていた。
古書店の少女。年齢不詳の、あの子。私服姿で、こちらを見ていた。表情は読めない。距離があるから。いや、近くても読めなかっただろう。
目が合った。玻璃は小さく頷いた。それだけ。何も言わず、踵を返して鳥居の外に消えた。
「……今の人」
理澄の声がした。いつの間にか来ていた。タブレットを片手に、データを記録している。
「久瀬、あなたの体表温度がさっき三度下がりました。あと、スマホの磁気センサーが完全に振り切れた。何が起きたんですか」
「……長い話だ」
「長くていいから、あとで全部聞かせてください」
理澄の目が真剣だった。怖がっていない。怒ってもいない。知りたいのだ。この子は、ただ純粋に知りたい。
「……まあ、話す」
立ち上がろうとした。史乃が手を貸してくれた。今度は、すり抜けなかった。手の温度が伝わった。
人間の手だ。俺の手も、史乃の手も。
社務所の奥から、宮司が出てきた。七十過ぎの小柄な老人。白い装束。いつもは飄々としているが、今は、何かを数える目をしていた。
指を折っている。小さく、唇が動いた。
「九十二。減ったな」
俺には聞こえなかった。史乃にも理澄にも聞こえなかった。
宮司は独り言を終えると、何事もなかったように社務所に戻っていった。