小説置き場

第10話「境内に降る光」

2,647文字 約6分

それは土曜日の夕方に起きた。

 御影坂神社の境内。七五三の参拝客がちらほらいる時間帯。史乃が社務所でお守りを売っている。俺は境内の端のベンチに座って、玻璃からもらった本を読んでいた。

 ここで読むのが習慣になりつつある。境内は空気が澄んでいて、願いの残滓が適度に流れている。図書館より集中できた。向こう側で、聖域の近くで研究をしていた頃の感覚に似ている。

 ——比べるな。

 風が変わった。

 最初は風だと思った。秋の風がひときわ強く吹いて、銀杏の葉が舞い上がった。だが、違う。風じゃない。

 空気が、震えている。

 本から顔を上げた。境内を見回した。参拝客は気づいていない。手水舎で手を洗っている親子連れ。賽銭箱の前で手を合わせている老婆。ベンチでスマホを見ている高校生。誰も異変を感じていない。

 だが俺には分かる。

 願いが——来る。

 一つじゃない。複数。同時に。

 境内のあちこちから、小さな光が立ち上っていた。薄い青。淡い橙。微かな白。色が違う。つまり、願いの種類が違う。別々の人間の、別々の祈り。

 三つ。いや、四つ。五つ、六つ。

 多い。今まで処理してきた案件は一つずつだった。一人の願い主と対話して、願いの行き先を調整する。それが俺のやり方だった。

 だが今、六つの願いが同時に発生している。

 なぜ。

 答えはすぐに分かった。七五三だ。参拝客が多い。普段は疎らな境内に、今日は何十人もの人間がいる。親が子の成長を祈る。子が親の笑顔を願う。老人が健康を祈る。高校生が受験を祈る。

 小さな祈り。一つ一つは微かな光。だが御影坂の土地は、「帰る」「戻す」「やりなおす」の願いが集まりやすい。普通の祈りに、土地の性質が共鳴して、増幅されている。

 光が、俺に向かって集まってきた。

 体が動く前に、光が来た。

 最初の一つが胸に触れた。温かかった。「子供が元気に育ちますように」。単純で、まっすぐな願い。これは処理しなくていい。自然に散らせばいい。

 二つ目。「母の腰が治りますように」。これも温かい。だが少し、重い。長年の願い。何度も祈られてきた分、密度がある。

 三つ目。四つ目。立て続けに来る。

 俺は立ち上がっていた。本が地面に落ちた。両手を開いた。向こう側で覚えた作法。願いを受け止めるときの姿勢。手のひらを上に向けて、呼吸を整えて。

 五つ目が来たとき、体に異変が起きた。

 右手が透けた。

 透ける、という現象は前にもあった。願いを処理したあとに、一瞬だけ。だが今回は違う。右手だけではない。手首から肘にかけて、皮膚の下に秋の空が透けて見えている。

「久瀬さんっ!」

 史乃の声がした。社務所から飛び出してきた。巫女装束の裾がはためいている。

「手が、手が透けてます!」

「分かってる。大丈夫。まだ……」

 六つ目が来た。

 白い光。「やりなおしたい」。誰かの切実な祈り。これが一番重い。白は執着。手放せない想い。

 体の透明が広がった。右腕だけでなく、胸の辺りまで。自分の胸の向こうに、境内の銀杏が見えた。内臓を通過して景色が見えるという、ありえない視界。

「久瀬さん、やめてください! 受け止めなくていいです!」

 史乃が駆け寄ってきた。俺の腕を、透けている腕を掴もうとした。手が、すり抜けた。

 史乃の目が見開かれた。

 掴めない。俺の腕を、彼女の手がすり抜けた。

「——大丈夫だ」

 自分に言い聞かせた。大丈夫。向こう側ではもっとひどい状況を切り抜けた。三十年のうちの三回、死にかけた。あれに比べれば。

 六つの光を、整理した。頭の中で。温かい順に並べて、処理が必要なものとそうでないものを分ける。

 一つ目と二つ目。自然に散らす。祈りとして受け止められれば十分だ。

 三つ目と四つ目。小さな未練。方向を調整して、現実と折り合えるように回す。

 五つ目。少し重い。だが願い主が近くにいる。処理というより、見守ればいい。

 六つ目。白い執着。これだけは。

 手を握った。透けている手を、意志の力で握りしめた。白い光が手の中で抵抗した。

「——聞こえてるよ」

 祠のときと同じ言葉を、呟いた。

 白い光が震えた。そして、散った。花びらのように。十月の境内に、白い光の欠片が舞った。参拝客には見えない。史乃には、見えていた。目を大きく開いて、光の花びらを見ていた。

 六つ。全部処理した。

 体が。

 膝が折れた。ベンチに手をつこうとしたが、手がベンチをすり抜けた。地面に膝をついた。膝は、かろうじて地面に触れた。まだ足は透けていない。

「久瀬さん!」

 史乃がしゃがんで、俺の顔を覗き込んだ。

「大丈夫です。大丈夫ですから。もう受け止めないで」

「……ああ。終わった。もう、終わった」

 透明が、ゆっくり引いていった。右手の先から。肘。肩。胸。五分ほどかけて、体が元に戻った。

 息が荒い。全力疾走したあとのような疲労感。向こう側で丸一日走り続けたときより、いや、違う種類の疲労だ。体力ではなく、存在そのものが削れている。

「久瀬さん。これ、飲んでください」

 史乃がペットボトルの水を渡してくれた。受け取った。手が震えている。蓋を開ける指に力が入らない。

 史乃が黙って蓋を開けてくれた。

 水を飲んだ。冷たい。十月の水。こんなに美味い水は、向こう側の湧き水以来だ。

 ——比べるな。

 境内の端で、人の気配がした。

 見上げた。銀杏の木の向こう、鳥居の近くに、玻璃が立っていた。

 古書店の少女。年齢不詳の、あの子。私服姿で、こちらを見ていた。表情は読めない。距離があるから。いや、近くても読めなかっただろう。

 目が合った。玻璃は小さく頷いた。それだけ。何も言わず、踵を返して鳥居の外に消えた。

「……今の人」

 理澄の声がした。いつの間にか来ていた。タブレットを片手に、データを記録している。

「久瀬、あなたの体表温度がさっき三度下がりました。あと、スマホの磁気センサーが完全に振り切れた。何が起きたんですか」

「……長い話だ」

「長くていいから、あとで全部聞かせてください」

 理澄の目が真剣だった。怖がっていない。怒ってもいない。知りたいのだ。この子は、ただ純粋に知りたい。

「……まあ、話す」

 立ち上がろうとした。史乃が手を貸してくれた。今度は、すり抜けなかった。手の温度が伝わった。

 人間の手だ。俺の手も、史乃の手も。

 社務所の奥から、宮司が出てきた。七十過ぎの小柄な老人。白い装束。いつもは飄々としているが、今は、何かを数える目をしていた。

 指を折っている。小さく、唇が動いた。

「九十二。減ったな」

 俺には聞こえなかった。史乃にも理澄にも聞こえなかった。

 宮司は独り言を終えると、何事もなかったように社務所に戻っていった。