小説置き場

第1話「御影坂駅、秋の残響」

2,164文字 約5分

面接が終わった。

 手応えはない。手応えがないことに、もう慣れた。これで何社目だろう。十八社。いや十九。数えるのをやめた頃から、数が曖昧になっている。

 駅前のスーツ姿の群れに混じって、俺は改札を通った。ICカードをタッチする。三十年前にはなかった仕組みだ。いや、あったのかもしれない。二十二歳で飛ばされたとき、世の中がどこまで進んでいたか、正直あまり覚えていない。

 俺の名前は久瀬恒一。二十二歳。大学四年生。

 というのが、書類上の事実だ。

 実際のところ、俺は五十二だ。正確には、二十二歳の体に五十二年分の記憶が詰まっている。異世界に三十年いた。三十年間、帰る方法を探し続けた。帰還術の理論を組み立てて、実験して、失敗して、やり直して、また失敗して。最後に成功して、こっちに戻ってきた。

 戻ってきたら、時間はほとんど経っていなかった。

 大学の単位は残っていた。アパートの家賃は引き落とされていた。冷蔵庫の中の牛乳は腐っていたが、それは飛ばされる前から賞味期限が切れていたやつだ。

 世界は俺なしで、ちゃんと回っていた。当たり前だが。

 御影坂駅。東京の西のほうにある、小さな文教都市の駅。改札を出ると、銀杏並木が続いている。十月。葉はまだ緑だが、端のほうが少し黄色い。あと二週間もすれば全部染まる。

 向こう側ではこの季節、空が紫になった。あの世界には銀杏がなかった。代わりに、夜になると発光する蔓草があった。三十年も見ていると、あれはあれで悪くないと思えるようになっていたが——。

 やめよう。

 ここは御影坂だ。東京の近くの、普通の街だ。発光する蔓草はないし、空は紫にならないし、買い物に魔石は要らない。

 商店街を歩く。パン屋。古書店。クリーニング屋。不動産屋。どこにでもあるような、でもどこか居心地のいい並び。この街を選んだのは大学があったからだが、四年前、俺にとっては三十四年前に初めて来たとき、妙に落ち着く場所だと思った。

 空気が違う。

 他の街より、少しだけ重い。重いというのは正確じゃない。染みている、という方が近い。人の思いが地面に染みているような。

 帰還者の俺には、それが分かる。異世界の三十年で、そういう感覚が身についた。場所が持つ記憶。土地に溜まった祈り。呼び方はいろいろあるが、要するにここには、何かが集まっている。

 何が集まっているかは、まだ分からない。分からなくていい。俺は帰ってきたばかりで、今やるべきことは卒論を書くことと、就活を乗り切ることだ。

 就活。

 面接官に聞かれた。「学生時代に最も力を入れたことは何ですか」。

 本音を言えば、「異世界で三十年間生き延びたことです」だ。帰還術の理論を独力で構築し、四十七回の実験を行い、うち四十六回失敗し、一回だけ成功してここに戻ってきました。途中で三回死にかけました。食糧の確保には七年かかりました。協力者を見つけるのに十一年かかりました。

 言えるわけがない。

 代わりに「ゼミの研究です」と答えた。四年前のゼミの内容は覚えている。三十年前の記憶だが。面接官は頷いたが、目が泳いでいた。俺の答えがどこか噛み合っていないことに気づいたのだろう。噛み合わない。三十年のズレがあるから。

 大学に着いた。

 キャンパスの正門をくぐると、銀杏の落ち葉が歩道に散らばっている。踏むとくしゃっと音がする。向こう側では落ち葉の音は聞こえなかった。草原は静かだった。

 ——やめろ。比べるな。ここはここだ。

 図書館に向かおうとして、足が止まった。

 キャンパスの端。体育館の裏手。生垣に半分隠れた場所に、小さな祠がある。前から気づいてはいた。苔むした石の祠。しめ縄が朽ちかけている。供え物は枯れた花が一本だけ。

 誰も手入れしていない。忘れられた祠。

 普通なら、それだけだ。古い大学にはよくある。敷地内に残った昔の信仰の名残。誰も気にしない。

 だが今、祠の奥に光がある。

 微かな、蛍のような光。目を凝らさないと見えない。普通の人間には見えないだろう。

 俺には見える。三十年の異世界生活で、こういうものを見分ける目が身についた。

 願いの残滓。

 誰かがここに祈った。祈りが受け止められないまま、祠の中に溜まっている。蓋のない水瓶に雨が溜まるように。

 ——放っておけ。俺には関係ない。俺はただの大学四年生で、やるべきことは卒論と就活で。

 光が揺れた。

 声が、聞こえた。

 祠の奥から。石の隙間から。

 声というより、気配。言葉にならない何か。助けてくれ、と言っている。あるいは、聞いてくれ、と。

 足が動いていた。

 三十年の癖だ。困っている何かの気配を感じると、足が勝手に向かう。異世界ではそうしなければ生き残れなかった。助けることが取引になり、取引が食糧になり、食糧が明日になった。損得と善意が区別できないくらいには、助けることが生活に染みついている。

 祠の前にしゃがんだ。苔むした石に手を置いた。冷たい。十月の石の温度。

 「聞こえてるよ」

 小さく、呟いた。

 光が一瞬だけ強くなって、消えた。

 静かになった。体育館の裏手。誰もいない。銀杏の葉が風に舞っている。

 ——面倒なことになりそうだ。

 五十二年分の直感が、そう言っている。

 立ち上がった。膝に土がついていた。払った。スーツのズボン。面接帰りのスーツ。異世界では一度も着なかった服。

 「……まあ」

 就活、やめようかな。

 そう思ったのは、この日が初めてだった。