木曜日。燈子との約束は明日だ。今日は何もない日にしたかった。
六時間目が終わった瞬間に、隼人が言った。
「今日こそゲーセン行くぞ。断るの禁止」
「……なんで禁止」
「三回連続で断られた。四回目は友情に傷がつく」
「大げさだろ」
「大げさじゃない。親友ポイントがマイナスに突入してる。今日ので回復させないと取引停止だ」
親友ポイントとは。
断る理由がなかった。今日は本当に何もない。Relayの管理操作は朝のうちに済ませた。燈子との面会は明日。市川はあれ以来接触がない。
「行く」
「よっしゃ」
駅前のゲームセンター。隼人が好きなのはクレーンゲームだ。柔道部で鍛えた腕でアームを操作するが、器用さとは別の話で、三百円使ってぬいぐるみは取れなかった。
「力の問題じゃないんだよな……」
「角度だよ。アームの降下位置をもう五ミリ右に」
「五ミリって言われてもさあ」
直人が代わりにやった。百円で取れた。小さなペンギンのぬいぐるみ。
「お前マジか。才能の無駄遣いだろ」
「クレーンゲームは物理法則だから」
「物理法則って言えば何でも許されると思うな」
隼人がペンギンを受け取って、鞄に入れた。妹にあげるらしい。隼人に妹はいない。弟が一人。
「弟にペンギン?」
「弟はペンギン好きなんだよ。小五だけど」
小五でペンギン好き。いい弟だ。
ゲームセンターを出て、駅前のファストフードで座った。隼人がポテトのLを二つ頼んだ。一つは直人の分。断る前に目の前に置かれた。
「直人。最近やせたな」
「え?」
「いや、前からデカくはないけど。首の後ろとか、ちょっと筋肉落ちてない? 飯ちゃんと食ってる?」
隼人の目が、一瞬だけ鋭くなった。
普段の隼人は、ぼんやりした明るい目をしている。だがときどき、ほんの一瞬、焦点が合う。何かを正確に見ている目になる。今のがそれだ。首の後ろの筋肉の量。それを見ている。
「食べてるよ。夜更かしが増えただけ」
「夜更かしで筋肉は落ちないだろ。食事量が落ちてんじゃないの」
正しい。直人は最近、夕飯を食べた後に自室でRelayの作業をしている間、小腹がすいても何も食べなくなった。間食を減らしたのは節約のためではなく、作業に集中すると食欲が消えるからだ。
「……気をつける」
「おう。気をつけろ」
隼人がポテトを一本ずつ食べている。巨大な手で小さなポテトを摘む姿は、少し面白い。
「隼人」
「ん?」
「お前さ、いつから、人の体調とか、そういうの見るようになった?」
「え? 見るって?」
「首の筋肉がどうとか。柔道の技の話じゃないだろ、あれ」
隼人が一瞬、固まった。ポテトを持ったまま。
「……うちの親父がうるさいんだよ。『人の体は嘘をつかない。顔は笑ってても、体は正直だ』って。小さい頃からそう言われて育ったから、癖になってるだけ」
「お父さん、何の仕事してるんだっけ」
「整体師。……みたいなもの」
「みたいなもの?」
「いろいろやってんだよ。整体と、護身術の教室と、あと、まあ、いろいろ」
曖昧にされた。隼人が曖昧にするのは珍しい。普段は裏表なく、聞かれたことにそのまま答える人間だ。
追求しなかった。今日は普通の放課後だ。普通を壊す質問はしない。
「ポテトうまいな」
「だろ。Lにして正解」
窓の外に夕日が落ちていた。駅前のロータリーにバスが入ってくる。買い物帰りの主婦。塾に向かう中学生。犬の散歩をしている老人。
普通の風景。
直人の目が、ロータリーの向こう側に動いた。反射的に。市川のような人間がいないか確認している自分に気づいた。
いない。誰もこちらを見ていない。
この癖が、ついてしまった。
「直人」
「ん?」
「なんか困ってることあったら言えよ」
隼人の声が、普段と違った。明るさを一段下げた、真剣な声。
「別に」
「嘘つくなとは言わない。でも、一人で抱えるな。俺、柔道以外のことは大したことできないけど、背中くらいは見てやれる」
背中を見る。
直人は隼人の顔を見た。百七十八センチの柔道部員。歯並びがいい。目が明るい。でもときどき、鋭くなる。
「……ありがとう。今は大丈夫」
「おう」
隼人はそれ以上聞かなかった。ポテトの最後の一本を食べて、「ごちそうさま」と言った。
店を出た。駅前で別れた。拳を軽くぶつけた。
「また明日な」
「また明日」
帰り道、直人は考えた。
隼人は気づいている。何かがおかしいことに。具体的には分からないだろうが、直人が何かを抱えていること、体調が落ちていること、目が泳いでいること。全部見えている。
「体は嘘をつかない」。隼人の父親の言葉。それが本当なら、直人の体は既にいくつかの嘘を漏らしている。
帰宅した。「ただいま」。母親が台所にいた。「今日はハンバーグだよ」。妹がリビングで漫画を読んでいる。
自室に入って、メインのスマートフォンで燈子に日報を送った。
『異常なし。明日四時にうかがいます』
返信。
『了解。ポテトの油は手を洗って落としなさい。指紋がべたべたよ』
見られてたのか。
直人はスマートフォンを置いて、手を洗いに行った。
ポテトの油は、確かにべたべただった。