小説置き場

第7話「正論は人を殴らない」

2,214文字 約5分

水曜日の放課後、直人は日報を送った。『異常なし』——燈子からの返信はすぐに届いた。

 『校門の二人組、今日もいた?』

 『いなかった。月曜からいない』

 『消えた理由は二つ。諦めたか、次のステージに移ったか。後者を想定しなさい』

 直人はスマートフォンをポケットに戻した。教室を出て、階段を降りる。隼人が横にいた。

「直人、今日暇? ゲーセン行かね?」

「ごめん、今日も用事」

「また? 最近多くね? 塾じゃないって言ってたよな」

「ちょっと、知り合いに頼まれてる調べものがあって」

 隼人は三秒だけ直人の顔を見た。それから肩をすくめた。

「ま、いいけど。無理すんなよ」

「ありがとう」

 校門を出た。駅前に向かって歩く。コンビニの前を通り過ぎる。燈子に教えられた「手を出しにくい場所」。位置は覚えている。

 ゲームセンターの前で、声がかかった。

「奥谷くん?」

 知らない男だった。三十代前半。ジャケットにチノパン。髪をきれいに整えている。スーツではないが、ビジネスカジュアル。名刺入れを手に持っている。

「突然すみません。ちょっとお話できますか」

「誰ですか」

「市川と言います。IT系の仕事をしていて、あなたに少し聞きたいことがあって」

 先日の二人組とは明らかに格が違った。あの二人はキャップとマスクの素人だった。この男は身なりが整っていて、声が落ち着いている。名刺入れを持っている。社会人の動き方をしている。

 燈子の言葉が浮かんだ。「小物の後ろには中物がいて、中物の後ろには本物がいる」。

 これが中物か。

「何の話ですか」

「ここだと目立つので、あちらのカフェで」

「ここで話してください」

 直人は動かなかった。ゲームセンターの前。人通りがある。監視カメラがある。ここから動く理由がない。

 市川は微笑んだ。予想通り、という顔。

「では手短に。あなたはRelayというネットワークに関わっていますね」

「知りません」

「そうですか。では質問を変えます。もしRelayの運営者と連絡が取れる立場にある方なら、お伝えいただきたいことがあるんです」

 巧い。「あなたが運営者だ」とは言わない。「運営者と連絡が取れる立場」と言う。否定しても肯定しても、会話が成立する構造。

「何をお伝えすればいいんですか」

「Relayのエスクローに流れている資金、推定で月間三千万前後ですが、これが法的にどのような扱いになるか、ご存じですか。匿名のネットワーク上での資金の預かりは、資金決済法に抵触する可能性がある。金融庁の規制対象になりうる」

 直人の胸が冷えた。

 知っている。Relayのエスクローが法的にグレーであることは、設計当初から認識していた。だからこそ匿名性を徹底し、法人格を持たせていない。だが三千万という数字を外部の人間が知っている。

「運営者が未成年であった場合、保護者の監督責任も問われます。学校にも連絡が行くかもしれない。そうなる前に」

「脅迫ですか」

 直人の声が硬くなった。

 市川は手を広げた。

「脅迫じゃないですよ。忠告です。法律に引っかかる前に、専門家に相談した方がいいという、善意の助言です」

 善意。

 この男は善意という言葉を使った。善意の助言。法律を盾にした、上品な脅迫。先日の二人組のような力ずくではない。正しさを装った圧力。

「帰ります」

「もう少しだけ」

「帰ります。これ以上話す理由がない。あなたが本当に善意で言っているなら、僕の名前と学校を調べてゲームセンターの前で待ち伏せする必要はなかったはずです」

 直人は歩き出した。振り返らなかった。コンビニの前を通り過ぎ、住宅街に入り、自宅のマンションまで一度も止まらなかった。

 自室に入って、ドアを閉めた。

 手が震えていた。

 スマートフォンを取り出した。燈子にメッセージ。

 『接触あり。先日の二人組ではない。30代男性。市川と名乗った。Relayのエスクロー額を知っていた。法律を盾にした脅し。ゲーセン前で待ち伏せ』

 十秒で返信。

 『場所を移動しなかったのは正解。何を答えた?』

 『知らないと言った。あとは資金決済法の話をされて、善意の助言だと言われた。最後に、善意なら待ち伏せの必要はないと言って帰った』

 三十秒。

 『最後の一言が余計。正論をぶつけた。相手は「この高校生は図星を突かれたから怒った」と読む。怒ったように見える対応は、肯定と同じ効果を持つ。次からは、正論で返さないで。何も反応しないこと。「すみません、急いでるので」で終わらせなさい』

 正論は通じない。

 直人は自分の対応を振り返った。「善意なら待ち伏せの必要はなかったはずです」。論理的には正しい。だが相手にとっては「反応した」というデータにしかならない。

 反応しないことが最善。あのDMと同じだ。返信しない、既読もつけない。反応しなければ、確定しない。

 だが目の前に人間が立って、法律をちらつかせて、善意の顔で脅してきたとき、何も言わずに立ち去ることが、どれほど難しいか。

 正論は人を殴らない。でも、正論を言いたくなる自分を殴ることもできない。

 燈子からもう一通。

 『市川は名前が本名かどうか不明。だが「法律」「規制」を出してきたなら、本職かその周辺。小物じゃない。明日会おう。四時。いつもの場所』

 直人はスマートフォンを机に置いた。

 リビングから妹の声が聞こえる。「お兄ちゃん、夕飯だよ」。今日は魚らしい。鮭の匂いがする。

 「今行く」と返事をして、部屋を出た。

 食卓に座る。鮭。味噌汁。ご飯。普通の夕飯。

 箸を持つ手が、まだ少しだけ震えていた。