放課後、駅前のカフェ。四時ちょうどに着いた。
燈子は既にいた。前回と同じ席。窓際。アイスコーヒー。前回と違うのは、テーブルの上に薄いファイルが置いてあることだ。
「座って」
座った。紅茶を頼んだ。砂糖は一つにした。前回は二つ入れすぎた。
「連絡が早かったわね。三日って言ったのに二日目の夜」
「昨日、やらかしたんです。Relayの緊急チャンネルでDVの相談があって、誰も対応してなくて。僕が管理者IDで直接返信して、最優先フラグを立てた」
燈子の目が細くなった。
「やらかしたって自覚はあるのね。それは偉い。——で、何が問題か分かる?」
「管理者の行動パターンを外に見せた。中核運営者が緊急事態に感情で動く人間だということを、観察者に教えた」
「正解。あとは?」
「あとは」
「最優先フラグを立てる権限を持っている人間は、Relay全体で何人?」
「三人」
「じゃあ、三人のうち誰がフラグを立てたか、時刻とパターンから絞り込める。あんたの匿名性は三分の一に減った。一回の善意で」
直人は紅茶のカップを見つめた。
「相談者は助かりましたか」
「分からない。シェルター情報は送った」
「なら、それでいい。助けたこと自体は間違いじゃない。問題は順番。助ける前に、自分の姿が見えない方法を選ぶべきだった。応答者に個別メンションすればよかった。フラグを立てる必要はなかった」
「分かってます。後から気づいた」
「後から気づくんじゃ遅いの。先に考えなさい。動く前に二秒。二秒で『この行動で誰に何が見えるか』を考える癖をつけること。それが死なない順番の一歩目よ」
燈子はファイルを開いた。中に紙が三枚。手書きのメモと、印刷された地図。
「本題に入る。あんたの現状を整理するわ」
燈子は指で紙をなぞりながら話した。
「Relayの規模は七万人。エスクローに流れる月間の金額は、知ってる?」
「約三千万円です」
「月間三千万。年間三億六千万。これが匿名のネットワーク上で動いている。この数字を知っている人間は、あんたの他に何人いる?」
「中核運営の三人。それと、監視しているなら、ブロックチェーン上のトランザクションから推計できる人間が、外にも」
「いる。既にいる。で、その金の匂いを嗅ぎつけた最初の連中が」
カフェの窓の外を、燈子が顎で示した。
道路の向こう側。電柱の陰に、二人組が立っていた。二十代。一人はキャップ。もう一人はマスク。直人の学校の制服を見て、こちらを見ている。
「あいつら、さっきからいるわ。あんたが来る前から。カフェの前で待ってた」
「僕を?」
「たぶん。学校から尾けてきたか、あんたの通学路を調べて待ち伏せしてるか。どっちにしても素人。距離の取り方が下手だし、二人でいる時点で隠す気がない」
直人の心臓が速くなった。
「どうすれば」
「何もしない。今は」
「でも」
「いい? あいつらはまだ何もしていない。待ち伏せだけなら犯罪じゃない。ここで騒いだら、あんたが『何か隠してる人間』だと確認させることになる。普通にしていなさい」
普通に。
直人は紅茶を飲んだ。味がする。前回よりはマシだ。
「あいつらのレベルを教える」燈子は声を落とした。「金の匂いに寄ってきた小物。本職じゃない。本職の下請けですらない。ネットでRelayの噂を拾って、運営者が高校生らしいって情報を買って、確認しに来ただけ。脅迫するなら本人特定してからやる。まだ確定してない段階。だから——」
「だから、普通にしていれば、確定させずに済む」
「学習が早いわね」
燈子は紅茶のおかわりを頼んだ。直人の分も。
「今日はここまで。あいつらの前を二人で出る。私があんたの知り合いに見えれば、あいつらは『この高校生には大人のバックがいる』と思う。それだけで、次のアクションが遅くなる」
「それが」
「抑止。直接戦わなくていい。相手に『面倒そうだ』と思わせればいい。今のあんたのレベルで使える最良の武器は、面倒くささ」
面倒くさい相手だと思わせる。
正論でも理屈でもなく。
「カフェを出たら、普通に歩いて。振り返らない。走らない。私が途中で別れるから、そのまま帰りなさい。帰り道で尾行されてると感じたら」
「逃げる?」
「コンビニに入りなさい。コンビニは監視カメラがある。カメラの前で暴力を振るう素人はいない。ドリンクを一本買って、十分待って、出る。それだけ」
コンビニ。監視カメラ。十分。
「それが死なない順番の二歩目。逃げる場所は、安全な場所じゃなくて、相手が手を出しにくい場所。意味が分かる?」
「……安全と、手を出しにくいは違う」
「そう。安全な場所はない。どこにもない。でも、相手にとって面倒な場所はある。それを覚えておいて」
会計を済ませた。燈子が払った。二回目。
カフェを出た。並んで歩いた。直人は振り返らなかった。視界の端で、二人組がこちらを見ているのが分かった。
交差点で燈子が立ち止まった。
「ここで別れる。明日から、放課後にメッセージを送って。一日一回。『異常なし』か、『接触あり』の二択。それだけでいい」
「分かりました」
「あと——」燈子が少しだけ声を低くした。「あの二人組は小物だけど、小物の後ろには中物がいて、中物の後ろには本物がいる。今は小物しか見えてないけど、小物の動きで中物の存在が分かることがある。小物を追い払わないで。泳がせなさい」
「泳がせる」
「観察すること。あいつらが誰に報告するか、何を確認しに来るか。情報はあんたが一番得意な分野でしょ」
燈子は手を上げて、反対方向に歩いていった。ヒールの低い靴の音が、夕方の商店街に響いて消えた。
直人は一人で帰った。振り返らなかった。コンビニの前を通った。入らなかった。今日は入る必要がなかった。
でも、場所は覚えた。
帰宅して、靴を脱いで、「ただいま」と言った。母親が台所にいた。「おかえり。今日は魚だよ」。妹がリビングで宿題をしている。
普通の夕方。
直人は自室に入って、メインのスマートフォンで燈子にメッセージを送った。
『異常なし』
三秒で返信が来た。
『よろしい。』