小説置き場

第5話「最悪の善意」

1,902文字 約4分

火曜日の夜。燈子に返事をする前に、やるべきことがある。

 直人は引き出しからスマートフォンを出し、Relayのダッシュボードを開いた。あのDMのあと、もう一通メッセージが来ていないか確認する。

 来ていなかった。

 だが、別の異常があった。

 緊急避難チャンネルに、一件の相談が入っていた。タイムスタンプは今日の午後三時。直人が学校にいる間に投稿されている。

 『家族にDVを受けています。逃げたいのですが、名義が全て夫のもので、自分名義の口座もカードもありません。子どもが一人います。どこに行けばいいか分かりません。警察には二回相談しましたが動いてくれませんでした。助けてください。』

 匿名ID。信用ノードは薄い。最近参加したユーザーだ。だが、文面に嘘の気配はなかった。具体的すぎる。「名義が全て夫のもの」「警察に二回」。本物の助けを求める人間の文章だ。

 通常なら、仲裁人やボランティアの応答者が対応する。緊急避難チャンネルには、シェルター情報や弁護士への接続ルートを知っているメンバーが何人もいる。

 だが応答がゼロだった。

 六時間経って、誰も返信していない。

 直人はチャンネルの状態を確認した。アクティブな応答者の一覧。全員がオフラインか、別の案件に対応中。緊急避難チャンネルは善意で回っているから、タイミングが悪ければ穴が開く。

 六時間。DVの相談者が六時間放置されている。

 直人の指が動いた。

 考える前に。

 管理者権限で、相談者のメッセージにフラグを立てた。最優先対応のタグ。これをつけると、登録済みの応答者全員に通知が飛ぶ。

 同時に、シェルター情報のテンプレートを相談者に直接送信した。管理者IDから。東京近郊の民間シェルターの連絡先と、無料の法律相談窓口のリスト。

 送信した。

 五秒後に、気づいた。

 管理者IDで直接返信した。

 通常、管理者は個別の相談には返信しない。仲裁や応答者が対応し、管理者は裏方に徹する。それがRelayの設計思想だ。管理者が直接動くことは、管理者の存在を、そのユーザーに開示することになる。

 さらに、最優先フラグを立てた。

 最優先フラグを立てる権限を持っているのは、Relayの中核運営者だけだ。一般の仲裁人にはない権限。つまり、このフラグを立てた人間が中核運営者の一人であることが、応答者全員に伝わった。

 そして、フラグを立てた時刻。午後九時十二分。日本時間の夜。直前に管理窓口のDMが既読になっている(あのDMを確認するためにログインした痕跡が残る)。

 動きのパターン。時刻。権限の行使。

 全部が「中核運営者はこの時間帯にアクティブで、緊急事態に即座に反応し、管理者IDで直接行動する人間だ」ということを示している。

 直人は椅子から立ち上がった。

 まずい。

 相談者を助けたかった。六時間放置されている人を見て、指が動いた。それは間違いではなかったはずだ。

 でも、やり方が間違っていた。

 管理者IDで直接返信する必要はなかった。応答者の一人に個別に連絡して対応を頼めばよかった。最優先フラグではなく、個別のメンションでよかった。自分の権限を見せる必要はなかった。

 善意で動いた。

 善意が自分の輪郭を外に見せた。

 あのDMの送り主は、管理者の行動パターンを観察している。今夜の行動が、観察者にもう一つのデータポイントを与えた。「この管理者は、緊急事態に感情で動く人間だ」と。

 直人はスマートフォンを引き出しに戻した。

 台所に行って水を飲んだ。冷たかった。手が震えていた。

 リビングのテレビが鳴っている。妹がバラエティ番組を見て笑っている。母親が夕飯の片づけをしている。食器が触れ合う音。水の音。

 普通の夜だ。

 直人は自分の部屋に戻り、ベッドに座った。

 燈子の名刺をポケットから出した。名前と電話番号。肩書きなし。

 「死なない順番を教える」。

 順番。

 今夜の自分は、順番を間違えた。助けたいという気持ちが先に来て、やり方を考える前に動いた。結果として、助けたい相手は助けられた(シェルター情報は送れた)。だが同時に、自分の情報を外に漏らした。

 善意の設計では、人は守れない。

 燈子が言っていたのは、たぶんこういうことだ。

 直人はスマートフォンを取り出した。メインの端末。燈子の番号を登録した。

 メッセージを打った。

 『お話を聞きたいです。明日、放課後に会えますか。奥谷直人』

 送信した。

 三十秒で返信が来た。

 『駅前のカフェ。四時。遅れないで。』

 返信が速い。待っていたのか。三日の猶予と言っていたが、たぶん二日目の夜に連絡が来ることを、計算していた。

 直人はスマートフォンを机に置いた。

 天井を見た。白い天井。

 妹の笑い声が壁越しに聞こえる。

 明日から、この家の外の世界が少し変わる。