日曜日の午後、隼人とラーメンを食べた。
駅前の新しい店。味噌ラーメン。隼人は大盛りに餃子とライス。透は普通盛り。隼人が「足りないだろ」と自分の餃子を二つ寄越した。断る前に皿に乗っていた。
「うまくね? ここ当たりだわ」
「うん、悪くない」
「悪くないじゃなくて、うまいだろ。素直に言えよ」
「……うまい」
「だろ?」
普通の日曜日だった。
ラーメン屋を出て、隼人と別れた。駅前の交差点で手を振って、反対方向に歩き出す。
三十メートル歩いたところで、声をかけられた。
「奥谷直人くん?」
足が止まった。
振り返ると、女性が立っていた。
二十代後半から三十歳前後。黒髪のボブカット。グレーのコートにダークネイビーのパンツ。ヒールは低い。歩きやすさを優先している。革の鞄を肩にかけている。ビジネスカジュアルとも私服とも取れる、意図的に印象を限定させない服装。
知らない人だ。
だが俺の名前を知っている。
「誰ですか」
「通りで話す内容じゃないわ。喫茶店に入りましょう。おごるから」
「知らない人についていくなとは」
「言われてるでしょうね。でも、あなたが今抱えてる問題を考えると、五分くらい話を聞いた方がいいと思うわ」
女性の目は笑っていなかった。営業スマイルでもなく、脅しでもなく、ただ事実を述べている目。
直人は考えた。三秒。
断って逃げることはできる。だがこの女性は俺のフルネームを知っている。日曜の行動パターンも把握している。逃げても追いかけてくる人間に、逃げることには意味がない。
五分だけ。
駅前のチェーンのカフェに入った。窓際の席。女性はアイスコーヒーを頼み、直人はホットの紅茶を頼んだ。コーヒーは苦手だ。
「私は御影燈子。仕事は——まあ、いろいろやってるわ。今はあなたの件で動いてるの」
「僕の件」
「Relayの件」
心臓が跳ねた。顔には出さなかった。たぶん。
「何の話ですか」
「その反応は偉い。でも、とぼけても無駄よ。私はあなたがRelayの中核運営者の一人だと知っている。正確には、創設者」
直人は紅茶のカップを持ったまま動かなかった。
「どこまで知ってるんですか」
「名前。学校。学年。自宅の住所。Relayの初期プロトタイプを開発した端末の通信ログから辿った。あとはタイムスタンプの分析。テスト期間に更新が止まるのは、学生にしては分かりやすいヒントだったわね」
先日洗い出した痕跡。全部突かれている。
「……あのDMも、あなたですか」
「DMは私じゃないわ。でも、送った人間に心当たりはある。私があなたに会いに来たのは、あのDMの送り主があなたに辿り着いたということは、他の連中もそろそろ辿り着くということだからよ」
「他の連中」
「あなたのRelayは大きくなりすぎた。七万人の匿名ネットワーク。エスクローに動いている金額。信用のデータベース。緊急避難チャンネル。外から見れば、人と金と逃げ道が揃った宝の山よ」
直人は紅茶を一口飲んだ。甘い。砂糖を入れすぎた。
「あなたは何が目的ですか」
「助けに来たわけじゃないわ。あなたの案件を軟着陸させれば、私にも利益がある。それだけよ」
「利益って」
「金。あとは人脈。あなたの技術力にも興味がある。正直に言うわ。私は善人じゃないし、ボランティアもしない。あなたが死んだり捕まったりすると、面倒なことになる人たちがいるの。私はその面倒を処理するのが仕事。面倒が小さいうちに潰しておきたいだけ」
商売人だ。
善意ゼロ。損得勘定。面倒の事前処理。
だが嘘がない。少なくとも、嘘をつく必要がないほど正直に利益を語っている。それは逆説的に、信用できる種類の人間だ。
「具体的に何をしてくれるんですか」
「まず、あなたに死なない順番を教える」
「死なない順番?」
「あなたは頭がいい。システムを設計する能力は本物だと思うわ。でも、現実の人間は合理的に動かないの。金と面子と恐怖と惰性で動く。その順番を知らないと、正しいことをしても殺されるわよ」
燈子はアイスコーヒーのストローを指で回した。
「あなたの最大の弱点は、善意で設計したものが善意で使われると思っていること。そろそろそうじゃない人たちが来るわ。来てから考えても遅いの」
直人は窓の外を見た。日曜の午後。買い物袋を持った家族連れ。犬の散歩。自転車の高校生。
普通の世界。
その世界の中で、知らない女に「死なない順番」の話をされている。
「考えさせてください」
「三日よ。それ以上は待てないわ。連絡先を渡すから、決まったらメッセージして」
燈子は名刺を出した。名前と電話番号だけが書いてある。肩書きなし。会社名なし。
「あと一つ」燈子が立ち上がりながら言った。「校門の前でスーツの男を見たでしょう。友達が教えてくれたはず」
直人の手が止まった。
「あれは私が送った人間じゃないわ。つまり、私以外にもあなたを見つけた人間がいるということよ。三日、考えて」
燈子はレジで二人分の会計を済ませて、店を出た。
直人はテーブルに残された名刺を見つめた。
御影燈子。電話番号。それだけ。
紅茶はまだ温かかった。でも味はもう分からなかった。