土曜日。学校は休みだ。
直人は朝九時に起きて、トーストを焼いて、牛乳を飲んで、自室に籠もった。妹は友達と遊びに行った。母親は買い物。父親は休日出勤。一人の時間はたっぷりある。
ノートパソコンの横に、初期化済みのスマートフォンを二台並べた。引き出しの奥から、さらに古い端末を一台引っ張り出した。画面にひびが入っている。中学三年のとき使っていたテスト端末。もう電源は入らないが、内部ストレージにデータが残っている可能性がある。
セルフ監査を始めた。
Relayの運営者として、自分の匿名性にどれだけの穴があるかを洗い出す作業。本来は定期的にやるべきだが、最後にやったのは半年前だ。あのDMが来てからでは遅い気もするが、何もしないよりはいい。
まず、通信経路。
Relayの管理操作はすべて専用の匿名化レイヤーを通している。VPN、プロキシ、オニオンルーティングの三段構え。IPアドレスから物理的な位置を特定されることは、理論上は、ない。
理論上は。
問題は「理論上」の外にある。
直人はメモ帳を開いて、過去三年間の自分の行動を思い出せる限り書き出した。
一つ目。古い開発端末。中学二年のとき、最初のプロトタイプを組んだ端末は、自宅のWi-Fiに直接繋いでいた。匿名化の仕組みを組み込む前だ。初期の通信ログがプロバイダに残っている可能性がある。三年前のログを今から消すことはできない。保持期間は過ぎているかもしれないが、確証はない。
直人はペンで「△」と書いた。消せない。ただし、三年前のログを掘り返すには相当な労力がいる。一般の攻撃者がここに辿り着く可能性は低い。
二つ目。テスト用ウォレット。
Relayのエスクロー機能を開発したとき、動作確認のために小額の暗号資産を送受信した。テスト用のウォレットアドレスは、後に本番環境に移行する際に破棄した、つもりだった。
直人はブロックチェーンのエクスプローラーを開いて、古いアドレスを検索した。
残っていた。
テスト用ウォレットから本番のエスクローコントラクトへの送金記録。金額はごく小さい。だがチェーン上のトランザクションは永久に消えない。このアドレスを起点に辿れば、Relayの初期開発者が使っていたウォレットが特定できる。そしてそのウォレットの生成時刻は直人が中学二年の夏休みだった日時と一致する。
「×」と書いた。消せない。消す方法がない。
三つ目。投稿と更新のタイムスタンプ。
Relayの管理者としての操作、システムの更新、仲裁の裁定、新機能のデプロイには時刻が記録される。直人は深夜か早朝に作業することが多い。だが定期テストの前後は作業が止まる。学校行事の日は更新が遅れる。
パターン。
三年分の更新履歴を並べれば、「この管理者は日本在住で、学生で、特定の試験期間に活動が減る人物」という輪郭が浮かぶ。地域と年齢層がそこから絞り込める。
「△」。パターンそのものは消せないが、全国に何百万人もいる学生のうちの一人だ。これだけでは特定に至らない。
四つ目。初期メンバーとの接触。
最初の三人で始めたとき、匿名のチャットルームで会話をした。全員匿名だったが、会話の中で直人は一度だけ、テスト環境のURLを共有した。そのURLのサブドメインには、直人が別の個人プロジェクトで使っていたハンドルネームの一部が含まれていた。
「×」。
書いてしまってから、椅子の背にもたれた。天井を見た。
一つ一つは小さい。IPログは三年前。テスト用ウォレットは微小な金額。タイムスタンプは何百万人の学生の中の一人。サブドメインの文字列は、ハンドルネームの一部に過ぎない。
だが、これらを全部集めたら?
日本在住。学生。特定の試験期間に活動が減る。初期開発に関わったウォレットの生成時刻は中学二年の夏休み。古い端末からの通信ログがプロバイダに存在する可能性。そして、ハンドルネームの断片。
全部が揃えば、候補はかなり絞れる。そこに学校の所在地が加われば。
DMの文面が頭をよぎった。「学園祭の準備、忙しいでしょう。」
直人はメモ帳を閉じた。
穴はある。大きな穴ではない。だが、小さな穴がいくつもある。そして小さな穴は、一つ一つは塞げても、もう残ってしまった痕跡は消せない。
ブロックチェーンは忘れない。プロバイダのログは消せない。時間のパターンは巻き戻せない。
直人は初期化済みのスマートフォンを引き出しに戻し、古いテスト端末をビニール袋に入れた。明日、物理的に破壊する。ストレージごと。今さら遅いかもしれないが、残しておくよりはいい。
台所に行って、水を飲んだ。窓から見える空は秋晴れだった。隣のマンションの屋上で布団が干してある。下の道路を、小学生が走り抜けていった。
普通の土曜日だ。
僕以外の全員にとっては。
午後、隼人からLINEが来た。
『明日、駅前のラーメン屋行かね? 新メニュー出たらしい』
直人は三秒で返信した。
『行く』
返信してから、自分がすぐに返事をしたことに少しだけ安堵した。
普通に返信できた。
普通の友達に、普通の返事ができた。
それが今、いちばん怖いことでもあった。普通のふりが上手くなっていることが。