水曜の放課後、直人のRelayアカウントに一通のメッセージが届いた。匿名ユーザーからのダイレクトメッセージ。Relayの仕組み上、運営者である直人に直接連絡できるルートは限られている。公式の問い合わせフォームか、運営用の匿名チャットか。そのメッセージは後者から来ていた。
「はじめまして。Relayを使わせていただいている者です。お礼を言いたくてメッセージしました」
直人は教室の端でスマホを見ていた。隼人は柔道部の練習に行っていて、教室には帰り支度をしている数人しか残っていない。窓の外は十二月の薄い曇り空だ。
お礼のメッセージは時々来る。月に二、三通。「助かりました」「ありがとうございます」。そういう短いメッセージが、直人にとってはRelayを続ける燃料だった。だが今回のメッセージは、続きがあった。
「半年前、私は夫からのDVで家を出ました。子どもが二人います。公的なシェルターに入れるまでの二ヶ月間、Relayを通じて生活費の支援を受けていました。送金してくれたのは、光の道という団体のメンバーの方でした」
直人の指が止まった。
「光の道のメンバーの方は、名前も顔も知らないまま、毎週三万円を送ってくれました。二ヶ月で二十四万円です。その間、一度も見返りを求めませんでした。勧誘もされませんでした。ただ『必要なものがあれば言ってください』とだけ」
メッセージはさらに続いていた。
「今は公的支援を受けて生活が安定しています。子どもたちも新しい学校に通っています。Relayがなければ、あの二ヶ月を乗り越えられなかったと思います。そしてRelayを通じて助けてくれた光の道のメンバーの方がいなければ、Relayだけでもどうにもならなかったと思います。両方に、感謝しています」
直人はスマホをポケットに入れて、教室を出た。廊下を歩いた。階段を下りた。校舎の裏のベンチに座った。十二月の空気が冷たくて、上着のファスナーを上まで閉めた。
二十四万円。八週間。毎週三万円。子ども二人を抱えたDV被害者を、Relayと光の道の信者が協力して支えた。直人が設計したシステムと、光の道のメンバーの善意が、一人の母親と二人の子どもの命綱になった。
これを「宗教の布教活動」と切り捨てることが、直人にはできなかった。
燈子に電話した。
「メッセージが来ました。ユーザーから」
「内容は」
直人は読み上げた。一言一句、正確に。燈子は最後まで黙って聞いていた。
「——以上です」
「分かったわ。で、あんたはどう思ったの」
「光の道を排除できないと思いました」
「理由は」
「排除したら、この人を切り捨てることになるからです。Relayを通じて光の道のメンバーに助けられた人が、光の道を切り離したRelayをどう思うか。恩人を追い出した場所を、信頼できるか」
燈子は短く笑った。笑いの種類が分からなかった。
「あんた、成長したわね。半年前なら『システムの設計上、特定団体の排除は技術的に不可能です』とか言って逃げてたでしょ」
「それも事実ですけど」
「事実で逃げるのはあんたの悪い癖よ。今回は逃げなかった。感情で答えた。それは進歩」
「進歩というか、逃げ場がなくなっただけです」
「同じことよ。成長と逃げ場の消失は、大体セットで来るの」
直人は校舎の壁にもたれた。コンクリートの冷たさが背中に染みる。空を見上げた。灰色の雲が東に流れている。
「燈子さん。一つ聞いていいですか」
「何」
「助けられた人は、助けた人に何か返さないといけないんですか」
「返さないといけない、とは限らない。でも返したいと思うのが人間よ。互酬性って知ってる?」
「聞いたことはあります。贈与とか、文化人類学の」
「そう。人間は何かをもらったら返したくなる。それは本能に近い反応なの。光の道が無償で支援する。受けた人は感謝する。感謝は帰属意識に変わる。帰属意識は忠誠に変わる。忠誠はお布施に変わる。それが宗教のビジネスモデルよ」
「でも——あのメッセージの人は、勧誘されてないって書いてました」
「今はね。されてないのは今だけかもしれない。あるいは、本当にされないかもしれない。問題はそこじゃないの。問題は、勧誘されなくても感謝が生まれるってことよ。感謝は勧誘より強い。勧誘は断れるけど、感謝は断れない」
直人は黙った。感謝は断れない。その通りだ。直人自身、Relayに感謝のメッセージが届くたびに、運営を続ける力をもらっている。感謝のメッセージは直人をRelayに縛りつけている。同じ構造が、光の道とその支援を受けた人の間にもある。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「まず事実を整理しなさい。感情的になるな、とは言わない。感情は大事よ。でも感情だけで判断すると、あんたは光の道に取り込まれる。桐生って人に会ったでしょ。あの人が善人に見えたでしょ。このメッセージを読んで、光の道が善い団体に見えたでしょ。その感覚は間違ってない。でも、間違ってないことと正しいことは違うの」
「間違ってないのに正しくない?」
「部分的に正しい、ということ。光の道のメンバーが人を助けたのは事実。でもそれは光の道という組織全体が善であることを証明しない。個人の善行と組織の善は別の話よ。あんたも分かるでしょ。Relayを使って犯罪をする人がいるからって、Relay全体が悪じゃないのと同じ」
論理としては分かる。分かるのだが、感情が追いつかない。二十四万円の重さが、論理を押しつぶしている。
夜、自室でノートパソコンを開いた。Relayのダッシュボードを眺めた。アクティブユーザー数、七万二千。トランザクション総額。支援成立件数。数字が並んでいる。この数字の一つひとつに、さっきのメッセージのような人がいる。
直人は返信を書いた。
「メッセージありがとうございます。お子さんたちが新しい学校に通えているとのこと、本当に良かったです。Relayを作った者として、こうしたお話を聞けることが何より嬉しいです」
送信した。それから、メッセージの送り主のトランザクション履歴をたどった。運営者権限で見られる匿名化された記録。確かに、半年前から二ヶ月間、毎週定額の送金が記録されていた。送金元のアカウントは、光の道のメンバーと思われるユーザー群の一つだった。
データは嘘をつかない。光の道のメンバーが、Relayを使って、本当に人を助けていた。技術者として、データを否定することはできない。
だが燈子の言葉も否定できない。個人の善行と組織の善は別物だ。
直人はダッシュボードを閉じて、ベッドに横になった。天井を見上げた。十二月の夜は早くて暗い。部屋の電気を消すと、ノートパソコンのスリープランプだけが青白く明滅している。
翌日の昼休み、隼人に話した。弁当を広げながら、メッセージの内容を伝えた。
「二十四万円?」
「うん。二ヶ月で」
隼人は箸を止めた。卵焼きを掴んだまま、考え込んでいる。
「それ、すげえな。俺の柔道部の部費、年間で三万だぞ」
「比較対象がおかしいけど、まあうん。すごい額だよ」
「で、お前はどうすんの。光の道をRelayから追い出すの?」
「追い出せない。匿名なんだから、そもそも誰が光の道のメンバーかを正式には把握できない。技術的に排除する方法がない」
「じゃあ放っとくしかないじゃん」
「放っておいたら、光の道がRelayを使ってどんどん影響力を広げる。善意の支援を通じて、感謝を集めて、感謝を帰属意識に変換する。燈子さんはそう分析してる」
隼人は卵焼きを食べた。もぐもぐと咀嚼しながら、目だけが真剣だった。
「なおと。お前の話、半分くらい分からん。でも一つだけ分かることがある」
「何」
「お前が困ってるってことは分かる。だから俺にできることがあったら言え。宗教は殴れないけど、お前の隣にはいられる」
直人は笑った。笑うと少しだけ楽になった。隼人の言葉には値段がつかないが、桐生の言葉とは違う種類の「値段がつかない」だった。桐生の言葉は交渉のテーブルに乗らないから怖い。隼人の言葉は交渉のテーブルに乗らないから温かい。
同じ「値段がつかない」が、人によってこんなに違う。直人はそのことを、Relayのコードには書けないと思った。