待ち合わせ場所は、渋谷から二駅離れた私鉄沿線のコーヒーチェーンだった。燈子が選んだ場所だ。「学校の最寄り駅から最低三駅離せ」「個人経営の店はダメ、チェーン店にしろ」「角席を取れ」。燈子のルールは具体的で、直人はその一つひとつに従った。
「角席って何か意味あるんですか」
「壁を背にできる。横から人が来ない。出入り口が見える。交渉の基本よ」
電話越しの燈子の声は、いつもより少しだけ硬かった。それが直人を余計に緊張させた。
十二月一日、日曜日。午後二時。直人は十五分前に店に着いた。隼人が隣に座っている。隼人は黒のパーカーにジーンズという普段通りの格好で、コーヒーを飲みながら窓の外を見ていた。ただし目が据わっている。柔道の試合前の顔だ。
「隼人、そんなに怖い顔しないでよ」
「してない」
「してるって。睨んでるみたいだよ」
「じゃあ睨んでるのかもな」
直人は苦笑した。隼人は宗教というものが根本的に嫌いだ。理由を聞いたことはないが、たぶん体育会系の人間にとって「言葉だけで人を動かす」という構造が生理的に合わないのだろう。隼人の世界では、努力は畳の上で証明するものだ。
二時ちょうどに、一人の男が店に入ってきた。
三十代半ばくらい。身長は直人より少し高い程度。紺のジャケットにチノパン。清潔だが目立たない服装。髪は短く整えられていて、眼鏡はなく、時計は安物のデジタル。直人が注目したのは靴だった。革靴ではなく、白いスニーカー。汚れていない。新品ではないが、手入れされている。
その男は店内を見渡して、角席の直人に目を留めた。微笑んだ。その微笑みに、営業の匂いがなかった。
「Relayの運営者さんですか」
「はい」
「光の道の桐生と申します。お時間いただいてありがとうございます」
桐生は向かいの席に座った。隼人をちらりと見て、軽く会釈した。隼人は無言でうなずいた。
「お連れの方は?」
「友人です」
「そうですか。心強いですね」
桐生はコーヒーを注文した。ブレンドのホット。砂糖もミルクも入れない。注文の仕方が自然だった。店員への態度も自然だった。直人は観察していた。燈子に言われた通り、相手の「自然さ」を疑うつもりだった。
だが、桐生の自然さは本物に見えた。
「単刀直入にお聞きしてもいいですか。光の道がRelayに興味を持つ理由は何ですか」
桐生は少し考えてから口を開いた。
「僕たちの活動は、困っている人に手を差し伸べることです。でも手を差し伸べるには、まず困っている人を見つけないといけない。それが一番難しい。困っている人は声を上げないんです。声を上げられないから困っている。Relayは、その声を上げられない人たちが互いに助け合えるシステムですよね。僕たちが何年もかけてやろうとしていたことを、あなたのシステムが実現している」
言葉に澱みがなかった。暗記した台詞ではなく、何度も考えた末に出てくる言葉だ。直人はそれが分かった。コードを書くとき、何度もリファクタリングした関数は無駄がなくなる。桐生の言葉にはリファクタリングされた関数と同じ質感があった。
「つまり、Relayのユーザーにアプローチしたいということですか」
「いいえ。それは違います」
桐生はコーヒーを一口飲んだ。
「僕たちがRelayのユーザーに何かを売りつけようとしているのではないかと、ご心配されていますよね。当然です。宗教団体がITプラットフォームに接触してきたら、誰でも警戒します。僕が逆の立場でもそうします」
直人は黙った。桐生がこちらの警戒を先回りして言語化した。これは交渉のテクニックなのか、それとも本当に相手の気持ちを理解しているのか。
「僕たちが望んでいるのは、Relayの仕組みを学ぶことです。どうすれば匿名のまま信頼関係を構築できるのか。どうすれば少額の支援を迅速に届けられるのか。Relayの設計思想に興味があるんです」
「設計思想」
「はい。技術的な話ではなく、哲学の話です。匿名で助け合うという思想。それは光の道の教えと深いところで響き合っていると感じました」
直人は胸の内側で何かが軋むのを感じた。「響き合う」という表現が刺さった。Relayを作ったとき、直人は哲学を意識していなかった。ただ、困っている人を助けるシステムが必要だと思っただけだ。でも桐生の言葉を聞くと、Relayの根底にある思想が宗教の言葉で翻訳されて返ってきたような気がした。
隼人が口を開いた。
「それ、ただの勧誘じゃないんすか」
桐生は隼人のほうを向いた。表情は変わらなかった。怒りも、苛立ちも、防御もない。
「そう見えるのは当然です。でも、もし僕が勧誘目的なら、こんなに回りくどいことはしません。Relayのユーザーに直接メッセージを送るほうが効率的です」
「やろうと思えばできるってことですか」
「技術的には。でもそれはしません。Relayの匿名性を破壊する行為ですから」
隼人は黙った。論理的に返されると、隼人は黙る癖がある。感情では負けないが、論理で来られると構えが崩れる。
直人は質問を続けた。
「光の道の信者がRelayで支援活動をしていることは知っています。シェルター費用の送金記録も見ました。あれは光の道の指示ですか」
「指示ではありません。信者個人の判断です。光の道は組織として寄付を強制しません。ただ、困っている人を助けることを奨励しています。その結果、信者がRelayを使って支援を行うようになった」
「奨励と指示の違いは何ですか」
桐生は少し間を置いた。この間が、今日初めての「考えている」時間だった。
「いい質問ですね。正直に言うと、その境界は曖昧です。組織が奨励すれば、メンバーはそれを実質的な指示として受け取ることがある。そのリスクは僕たちも認識しています」
直人は驚いた。宗教団体の人間が、自分たちのリスクを認めた。燈子なら「それも計算よ」と言うだろう。だが直人の目の前にいる桐生は、計算で話しているようには見えなかった。
桐生はコーヒーカップを両手で包んだ。
「奥谷さん——と呼んでいいか分かりませんが。あなたがRelayを作った動機を、僕は尊敬しています。十七歳で七万人のネットワークを構築したことではなく、困っている人を助けたいという動機そのものを。それは光の道が百人のスタッフで何年もかけてやろうとしていることを、あなたが一人でやったということです」
きれいな言葉だった。完璧な言葉だった。一つも間違っていないし、一つも嘘がない。
だからこそ、直人は怖かった。
帰り道、隼人と並んで歩いた。十二月の風が冷たくて、吐く息が白い。
「どう思った?」
隼人は首をかしげた。
「悪い人には見えなかった。——でもそれは答えになってないよな」
「なってない」
「じゃあ、こう言う。俺には判断できない。燈子さんに聞け」
直人はスマホを取り出して燈子に報告を送った。会話の要約。桐生の態度。言葉遣い。靴の種類まで書いた。
返信は十分後に来た。
「怖い人ね。嘘をつく人は見抜ける。本当のことを信じてる人は見抜けない。あんたが感じた『怖さ』は正しいわよ。きれいな言葉には値段がつかないの。値段がつかないものは、交渉のテーブルに乗せられない。つまり、あんたの土俵じゃ戦えないってことよ」
直人は画面を見つめた。値段がつかないもの。Relayは値段がつく世界のシステムだ。トランザクション、手数料、ウォレット残高。すべて数字で表現できる。だが桐生が持ち込んだのは、数字にならないものだった。信仰。使命感。善意。それらはRelayのコードでは処理できない。
駅の改札を通りながら、直人は思った。桐生は敵ではないかもしれない。だが味方でもない。味方でも敵でもないものに、Relayの設計にはカテゴリがない。分類できないものは、システムのバグになる。
ホームで電車を待ちながら、隼人がぽつりと言った。
「なおと。あの人の話、全部正しかったよな」
「うん」
「全部正しいのに怖い、って初めてだわ」
電車が来た。二人は乗り込んだ。車内の暖房が頬を温めて、十二月の冷たさが少しだけ遠くなった。でも桐生の言葉の温度は消えなかった。きれいな言葉は、値段がつかないから、捨てることもできない。