小説置き場

第22話「助けられた側は黙ってくれない」

2,902文字 約6分

光の道からの返信は、翌日の夜に来た。丁寧さの温度は変わっていなかった。むしろ上がっていた。

 「お忙しい中ご返信いただき、ありがとうございます。おっしゃる通り、連携という形は現時点では難しいかもしれません。ただ、一つだけお伝えしたいことがございます。Relayのおかげで救われた方がいます。その方のお話だけでも、聞いていただけないでしょうか」

 添付されていたのは、スクリーンショットだった。Relayのトランザクション画面。送金元は匿名アカウント、送金先も匿名アカウント。金額は十二万円。備考欄に一行だけ書いてあった。「シェルター費用。三ヶ月分」。

 直人はその画面を見つめた。十二万円。Relayのトランザクションとしては中規模だ。個人間の支援としては大きい。シェルター。DV被害者のシェルターか、ホームレスのシェルターか。どちらにしても、この十二万円が誰かの三ヶ月間の居場所になった。

 Relayはこういうことのために作ったのだ。

 直人が十五歳のときにコードを書き始めたきっかけは、中学の同級生だった。母子家庭で、母親が病気になって、生活保護の申請が通るまでの二ヶ月間、文字通り食べるものがなかった。給食がある学校の日は生き延びられるが、週末と長期休暇が地獄だった。直人はその子に自分の弁当を半分渡していたが、それは根本的な解決ではなかった。

 必要だったのは、匿名で、迅速に、少額の支援ができるインフラだった。銀行口座を持てない人、身分証を出せない人、公的支援の網からこぼれ落ちた人。そういう人たちが互いに助け合えるシステム。既存の送金サービスでは本人確認が必要で、本人確認ができない人は排除される。排除された人たちを拾い上げるシステムが、Relayの原点だった。

 二年間のコーディング。一人で書いたバックエンド。匿名性を担保するための暗号化レイヤー。マルチシグによる不正防止。スマートコントラクトで自動化されたエスクロー。直人の十五歳から十七歳までの放課後と休日が、全部Relayに注がれた。

 その原点が、目の前にある。光の道の信者が、Relayを使って、実際に人を救っている。シェルター費用十二万円。直人の設計したシステムが、直人の知らないところで、直人が想像した通りに機能している。それは誇りだったし、同時に恐怖でもあった。機能しているからこそ、狙われる。

 直人は燈子に電話した。

「スクリーンショットが送られてきました。Relayで実際に支援が行われた記録です」

「見せて」

 画像を転送した。三十秒の沈黙。

「本物ね。トランザクションハッシュが正しい。改ざんじゃないわ」

「やっぱり本物ですか」

「当然でしょ。嘘のスクリーンショットを送ったらあんたに検証されるって分かってるもの。この人たちはバカじゃないの。だからこそ厄介なのよ」

 直人は机の上に肘をついた。ノートパソコンの画面に光の道のサイトが開いている。清潔な写真。笑顔の人々。そして今、Relayの実際のトランザクション記録。

「燈子さん。これ——どう扱えばいいですか」

「何が聞きたいの」

「Relayを閉じるべきかどうか、迷ってます」

 燈子の声のトーンが変わった。低くなった。

「それは前から迷ってたでしょ」

「はい。でも今は——理由が違います。前は反社に狙われるから閉じるべきかもって思ってた。今は——Relayが本当に人を助けてるから、閉じちゃいけないのかもって」

「その二つは矛盾しないわよ。Relayが人を助けてるのは事実。Relayが危険なのも事実。両方同時に本当。だから面倒なの」

 直人は黙った。Relayを作ったとき、こんなことは想像していなかった。七万人のネットワークが成長して、反社に狙われて、宗教に目をつけられて、そのどれもが「Relayが機能しているからこそ」起きている問題だ。成功したから問題が生じている。失敗していれば、誰にも見向きもされなかっただろう。

「あんたに一つだけ言っとく」

「何ですか」

「助けられた側は黙ってくれないのよ。あんたがRelayを閉じたいと思っても、Relayに助けられた七万人がそれを許さない。閉じたらあんたは七万人の敵になる。分かる?」

 分かった。分かりたくなかったが、分かった。

 Relayは直人が作ったものだが、もう直人だけのものではない。七万人の利用者がいて、その中には光の道の信者もいて、DV被害者もいて、ホームレスもいて、公的支援からこぼれた人たちがいる。その人たちにとってRelayは命綱だ。命綱を握っている直人が手を離せば、七万人が落ちる。

「じゃあ——どうすればいいんですか。閉じることもできない。このまま続けることもできない。反社にも宗教にも狙われてる」

「そのジレンマを解くのがあんたの仕事でしょ。あたしはアドバイザーよ。答えは出さない。出し方を教えるだけ」

「出し方を教えてください」

「光の道に会いなさい」

「え?」

「断ったじゃないですか」

「断った。でも会わないと情報が取れないの。相手が何を考えてるか、何を狙ってるか、会って顔を見ないと分からないことがある。あんたはRelayの設計者でしょ。ユーザーインタビューと同じよ。相手の行動原理を理解するために、直接会う」

 直人は窓の外を見た。十一月の夜。街灯の下を人が歩いている。普通の人。普通の夜。だが直人の画面には、十二万円のトランザクション記録と、宗教団体からのDMが並んでいる。

「会います」

「よし。場所はこっちで指定する。あんたの学校の近くじゃダメよ。身元がバレる」

「それは——もう半分バレてるんですけど」

「半分と全部は天と地ほど違うの。半分なら否認できる。全部バレたら否認できない。その差は致命的よ」

 直人はノートに書いた。「半分と全部の差は致命的」。燈子語録がまた一つ増えた。

 翌日の放課後、直人は教室で隼人に声をかけた。

「来週、人に会うんだけど。ついてきてくれない?」

「誰に」

「宗教団体」

 隼人が箸を止めた。弁当の唐揚げを掴んだまま、直人の顔を見た。

「……お前、マジで言ってる?」

「マジ」

「燈子さんのOK出てる?」

「出てる。というか燈子さんに会えって言われた」

 隼人は唐揚げを口に入れて、ゆっくり噛んだ。噛みながら考えている顔だ。

「分かった。行くよ。——でも、勧誘されたらぶん殴るからな」

「それは困る」

「冗談。たぶん」

 隼人の「たぶん」には、たぶん半分くらいの本気が混じっていた。直人は笑った。笑えるということは、まだ大丈夫だということだ。宗教団体とのミーティングをセッティングしながら、放課後に親友と弁当を食べて笑える。この二つの世界が同時に存在している。

 教室の窓から夕日が差し込んでいて、隼人の制服の肩が橙色に光っている。この光景を、直人は覚えておこうと思った。普通の放課後。普通の唐揚げ。普通の「たぶん」。Relayの問題がどう転んでも、この時間だけは本物だ。

 帰り道、直人は光の道のサイトをもう一度開いた。「すべての人に光を」。そのスローガンの下に、十二万円で救われた誰かがいる。その事実は、直人の技術者としての誇りを肯定すると同時に、運営者としての逃げ道を塞いでいた。