朝のホームルームで、担任の野崎が連絡事項を読み上げている。来週の避難訓練。文化祭の準備委員の追加募集。進路調査票の提出期限。
直人はノートの端に、別のことを書いていた。
昨夜、寝る前にRelayのダッシュボードを確認したとき、管理者向けのダイレクトメッセージに未読が一件あった。管理窓口への連絡は珍しくない。システムの不具合報告や仲裁への異議申し立てが週に数件は来る。
だが、あのメッセージは違った。
送信者のIDは見覚えがなかった。Relayのアクティブユーザーでもなく、過去の参加者でもなく、データベースに一切の履歴がない新規アカウント。作成日時はメッセージ送信の二分前。メッセージを送るためだけに作られたIDだ。
内容は短かった。
『学園祭の準備、忙しいでしょう。体調に気をつけて。』
それだけ。
一見すると、ただの善意のメッセージに見える。だが管理者向けのDM窓口にこれを送れること自体がおかしい。一般ユーザーには管理者への直接連絡手段は公開されていない。このチャンネルにアクセスするには、Relayの内部構造を相当深く知っている必要がある。
そして「学園祭の準備」。
Relayは匿名のネットワークだ。管理者が高校生であることは、誰も知らないはずだ。
直人はノートに数字を書いた。メッセージの受信時刻。送信者IDの作成時刻。経由したリレーノードの番号。帰宅したらログを精査する。今はこれだけメモしておく。
「奥谷、聞いてるか?」
顔を上げた。野崎がこっちを見ている。
「はい」
「進路調査票、来週の金曜が締切だからな」
「分かりました」
隣の席の女子が小さく笑った。直人が授業中にぼーっとしているのは珍しいらしい。珍しいだろうな。普段はちゃんと聞いている。聞いているふりが上手いだけかもしれないけど。
昼休み。隼人と屋上で弁当を食べた。
今日は母親が作った弁当だ。卵焼き、ウインナー、ブロッコリー、ご飯に梅干し。隼人は購買のカツサンドを三つ。柔道部の食欲は一般人の尺度で測れない。
「直人、なんか顔色悪くね?」
「そう? 寝不足かも」
「夜更かしすんなよ。お前、見た目よりスタミナないだろ」
「うるさいな」
「事実だって。体育の持久走、俺の半分でバテてたじゃん」
否定できない。直人は体力がない。頭は速く回るが、体は平均以下だ。隼人が横にいると余計にそう感じる。
隼人がカツサンドの三つ目を開けながら言った。
「そういえば、昨日の帰り、校門のとこでお前のこと見てる人いなかった?」
直人の箸が止まった。
「見てる?」
「いや、気のせいかもしんないけど。スーツの人が校門の向かいに立ってて、生徒が出てくるの見てたんだよね。別に不審者ってほどじゃないけど、保護者でもなさそうで。直人が出てきたとき、ちょっとそっち見た気がした」
「……保護者説明会とか、あったっけ」
「ないない。十月にはない」
直人は弁当に目を戻した。卵焼きを一切れ口に入れた。味がしなかった。
校門で見ていた人間。
管理者窓口に届いたDM。
二つが繋がっている保証はない。偶然かもしれない。だが「学園祭の準備」というフレーズは、管理者が学生であることを知っている人間にしか書けない。そしてもし、その人間が物理的にもこちらの場所を特定しているなら。
繋がっていないと思うほうが、危険だ。
「直人?」
「ん?」
「弁当、冷める前に食えよ」
「ああ、うん」
食べた。全部食べた。味は思い出せない。
放課後。
直人はまっすぐ帰宅した。寄り道はしない。いつもの道。いつもの速度。走らない。振り返らない。普通に歩く。
自室に戻り、パソコンを開いた。
ログの精査に二時間かかった。
結果。DMの送信者は三重のリレーを経由していて、元のIPアドレスを辿ることはできなかった。Relayの匿名化機能が正しく動作している。つまり、相手はRelayの仕組みを理解した上で、匿名のまま管理者に接触してきた。
管理窓口のアクセス方法を知っていた。管理者が学生であることを知っていた。そしておそらく、学校の場所も知っている。
だが、名指しはしていない。直人個人を特定したとは言っていない。「学園祭」は季節から推測できる。「体調に気をつけて」は一般的な言い回しだ。
挑発ではない。脅迫でもない。
これは観察だ。
「あなたのことを見ていますよ」というメッセージ。はっきり言わず、匂わせるだけ。こちらがパニックを起こすか、何もしないか、反応を見ている。
直人は椅子の背にもたれた。天井を見た。
白い天井。妹がリビングでテレビを見ている音が壁越しに聞こえる。
返信はしない。既読もつけない。反応しないことが、今できる最善だ。
たぶん。
直人はDMの画面を閉じた。閉じてから、指先が少しだけ震えていることに気づいた。