小説置き場

第19話「メンツって非代替性トークンかよ」

4,473文字 約9分

須藤との交渉は、燈子が仕切った。

 場所は霞崎区のレンタル会議室。燈子が選んだ。「カフェは盗聴されやすい。会議室は予約名が残るから、相手も記録に残ることを意識する」。

 直人も同席した。燈子が「今回は来なさい。大人の交渉を見ておく必要がある」と言った。

 会議室。八人掛けのテーブル。須藤が一人で座っていた。紺のスーツ。クリアファイル。水のペットボトル。

 燈子と直人が入った。

「お待たせしました。御影です。こちらは依頼人の奥谷くん」

「須藤です。よろしくお願いします」

 丁寧だった。穏やかだった。会議室の空気は、オフィスの打ち合わせと変わらなかった。

 須藤がクリアファイルから書類を取り出した。三枚。

「単刀直入に申し上げます。Relayの運営に協力したいと考えています」

「協力の内容を具体的に」

「三つあります。一つ目、運営コストの負担。月額のインフラ費用を全額負担します。二つ目、法務支援。Relayが法的に問題のない形で運営できるよう、弁護士を手配します。三つ目、セキュリティ監査。外部の専門家によるセキュリティチェックを定期的に実施します」

 きれいな提案だった。表面上は。

 運営コストの負担。月額十五万が消える。法務支援。弁護士が法律面を見てくれる。セキュリティ監査。外部の専門家がシステムをチェックする。

 どれもRelayに必要なものだ。直人が一人で抱えていた負担を、肩代わりしてくれる。

「対価は」

 燈子が聞いた。

「Relayのガバナンスへの参加です。意思決定に一票を持ちたい。重要な変更がある場合に、事前に相談を受ける権利」

「議決権の何パーセントですか」

「二十パーセント」

「ゼロよ」

 燈子は即答した。

「御影さん——」

「二十パーセントの議決権は、拒否権と同義です。重要事項の議決に八十パーセントの賛成が必要な場合、二十パーセントの反対で全てが止まる。——あなたが何を止めたいのか、見え透いているわ」

 須藤は表情を変えなかった。

「では、何パーセントなら」

「ゼロ。議決権の譲渡は受け入れられません。——次の提案を」

 須藤は少し間を置いた。それからクリアファイルから別の書類を出した。

「では、議決権ではなくオブザーバー権はいかがですか。決定に参加しないが、情報は共有される立場」

「情報の範囲は」

「運営報告書の共有。月次の利用者統計。エスクローの収支報告」

 燈子が直人を見た。「どう思う」という目線。

 直人は考えた。

 利用者統計は匿名化すれば共有できる。エスクローの収支も、個人を特定する情報を含まなければ——技術的には可能だ。

 だが。

「須藤さん。一つ聞いていいですか」

「どうぞ」

「この提案を、あなたのクライアントに持ち帰ったとき——クライアントは満足しますか」

 須藤の目が光った。一瞬だけ。

「何を仰りたいですか」

「あなたのクライアントが欲しいのは、Relayの運営情報ではないですよね。欲しいのは——Relayの支配権です。支配権が手に入らないなら、この提携は意味がない」

 須藤が黙った。

「つまり——何を交渉しても、あなたのクライアントが満足する結論にはならない。僕がRelayを渡さない限り」

「直人くん」

 須藤の声が変わった。「くん」の付け方が、初対面のときとは違う。距離を詰めている。

「あなたは賢い。だから率直に言うわ。——あなたがRelayを渡さないなら、交渉は不調に終わります。不調に終わった場合——」

「須藤さん」

 燈子が割って入った。

「不調の場合にどうなるか、という発言は——録音されていますよ。脅迫と受け取られかねない発言は控えたほうがいいんじゃないかしら」

 須藤が燈子を見た。二人の視線が交差した。

 三秒。

 須藤が姿勢を正した。

「失礼しました。——提案をお持ち帰りいただいて、ご検討ください」

「検討します」

 会議室を出た。エレベーターで一階に降りた。ビルの外に出た。

 直人の足が震えていた。立っていたが、膝が微かに笑っている。

「よく持ったわね」

 燈子が歩きながら言った。

「須藤は——怖い人ですか」

「怖くはないわ。有能だけど。彼は会計屋だから、最終的には数字で判断する。感情で動くタイプじゃない。——ただ、彼のクライアントは別よ」

「クライアント」

「須藤のクライアントは——面子で動くわ」

「面子?」

「メンツ。プライド。体面。——あんた、面子ってわかる?」

「言葉としては」

「言葉としてはね。でも実感はないでしょう」

 燈子が立ち止まった。

「あんたは設計者だからロジックで動くの。コストと利益。リスクとリターン。合理的な判断。——でもね、裏の世界では、合理的じゃない判断のほうが怖いのよ」

「合理的じゃない判断」

「面子が潰されたら、コストに見合わなくても報復するの。数字では止まらないの。理屈では止まらないの。——あんたが須藤を通じてクライアントの提案を断った。それは合理的には正しい判断よ。でも——」

「クライアントの面子を潰した」

「そう。提案を断ること自体が侮辱になるの。十七歳の高校生に断られた——という事実が」

 面子。

 直人は理解できなかった。合理的に考えれば、提案を断るのは当然だ。相手の要求は不当だ。不当な要求を断ることは正しい。

 だが正しいかどうかと、面子が潰れるかどうかは別の問題だ。

「どうすればよかったんですか」

「断り方よ。結論は同じでも、断り方で面子は守れる。『今は時期が早い。来年改めてお話ししましょう』——これなら断ってるけど、面子は潰していない」

「でも、来年話す気はないですよね」

「ないわよ。でも相手にそう言うの。面子の保全は——嘘ではなく、手順の問題なの」

 手順。また手順だ。燈子の教えは常に手順と順番だ。

「遅いですか。もう」

「遅くはないわ。須藤に連絡を入れるわ。『検討した結果、現時点では時期尚早と判断した。改めてお話しする機会を設けたい』——須藤は会計屋だからこれで読めるの。クライアントには『交渉継続中』と報告できる。面子が保たれる」

「それで時間を稼ぐ」

「時間を稼ぐの。時間は味方よ。あんたが十七歳であることは弱点だけど——時間が経てば十八になる。法律上の立場が変わるわ」

 帰り道。一人で歩いた。

 面子。手順。断り方。

 技術の世界では、不要なものは削除すればいい。コードは書き直せる。でも人間の面子は——削除できない。書き直せない。

 Relayの設計には面子の概念がなかった。匿名だから。匿名の世界には面子がない。

 でも現実の世界は匿名ではない。名前があり、顔があり、面子がある。

 直人はまた一つ、現実の文法を学んだ。

 嬉しくはなかった。