公園のベンチ。四回目。
燈子は今日も時間通りだった。十五時ちょうど。黒いコートに白いタートルネック。片手にコンビニのカフェラテ。
「須藤の対策を話すわ。——その前に一つ確認。あんた、自分の何が危険か分かってる?」
「名前と学校がバレていること——」
「それは最初のステージ。もう終わったわ。市川のレベルの話。須藤が来たということは、次のステージに入ったの」
「次のステージ」
「名前は入り口に過ぎない。名前が分かっても、それだけでは何もできないの。——怖いのは名前じゃないわ」
燈子がカフェラテを一口飲んだ。
「三つあるわ。名前より怖いもの」
直人はノートを開いた。紙のノート。
「一つ目。財産構造」
「財産? 僕にはお金ないですけど」
「あんた個人のお金じゃない。Relayの財産構造よ。エスクローに三千万。暗号通貨のウォレット。鍵の保管場所。鍵を分散した先の人間の身元。——これが須藤が欲しいもの」
「鍵は分散しました」
「分散したことは須藤も知ってるわよ。市川からの報告で。だから直接脅迫してこないの。代わりに——」
「提携を持ちかけてくる」
「正解。『一緒にやりましょう』。合法的に。契約書を交わして。Relayの運営に出資するから、取締役会に一席くれないか——そういう話」
「Relayに取締役会はありません。DAOです」
「知ってるわ。だから形を変えてくるの。DAO のガバナンストークンを発行しろ、とか。発行したトークンの何割かを譲渡しろ、とか。技術的に正確な言葉で来るわよ。須藤の後ろにはそういうのに詳しい人間がいる」
直人は書き留めた。財産構造。ガバナンストークン。
直人はペンを走らせた。秋風が公園を吹き抜けて、ノートのページをめくろうとした。手で押さえた。
「二つ目。アクセス権」
「アクセス権?」
「あんたが何にアクセスできるか。Relayのデータベース。利用者の匿名プロフィール。取引履歴。エスクローのログ。——あんたは七万人の活動記録にアクセスできる。この権限自体が価値なの」
「でもデータは暗号化されていて——」
「暗号化されていても、あんたには復号する鍵がある。つまり、あんたを通せば七万人のデータに触れる。須藤が欲しいのは、あんたの鍵ではなく——あんたのアクセス権そのもの」
「アクセス権を渡せと?」
「渡せとは言わないわ。『一緒に見ましょう。コンプライアンスの観点から、第三者監査が必要です』——そういう言い方をするの。合法的に、正当な理由で、あんたのデータに触ろうとする」
直人はペンを止めた。
合法的に。正当な理由で。嘘ではない。第三者監査は確かに正当なプロセスだ。だがその監査を行うのが須藤の息がかかった人間なら。
「三つ目は?」
「守る順番」
「守る順番?」
「あんたが何を守るか。何を最初に守るか。——須藤はそれを探っているの」
「意味が——」
「たとえば。あんたの前に、こういう選択が置かれたとする。Relayの利用者七万人のデータを守るか、あんたの家族を守るか。どちらか一つ」
「両方——」
「両方は選べない。どちらかしか守れない状況を作るのが、須藤の仕事よ。そしてあんたがどちらを選ぶかで——あんたの弱点が分かるの」
風が吹いた。公園の木の葉が揺れた。
「もし利用者を選べば、あんたは家族に弱い。次は家族を人質にする。もし家族を選べば、あんたはRelayを捨てられる。そのときRelayごと手に入れればいい」
「どちらを選んでも——」
「負けるわね。だからこの質問をさせないの。——守る順番を決めるのは、あんた自身よ。でも相手に見せてはいけない」
直人はノートを閉じた。
財産構造。アクセス権。守る順番。
名前よりも怖いもの。市川の脅迫は直線的だった。「金を出せ」「言うことを聞け」。須藤の攻め方は曲線的だ。合法。丁寧。正当。そしてどこからでも入ってくる。
「燈子さん。一つ聞いていいですか」
「何」
「僕の守る順番は——」
「言わなくていいわ。私にも見せなくていい」
「え?」
「私は商売人だもの。あんたの弱点を知ったら——使わない保証がないでしょう」
直人は燈子を見た。燈子は笑っていた。冗談なのか本気なのか分からない笑顔。
「……本気で言ってますか」
「半分本気。——覚えておきなさい。信頼は全部渡すものじゃないの。私にも、隼人くんにも、Relayの協力者にも。全部渡した瞬間、全部失う可能性が生まれるわ」
信頼は全部渡すものじゃない。
帰り道。一人で歩いた。商店街を通った。夕方の買い物客。惣菜屋の匂い。コロッケの揚がる音。
自分の弱点を棚卸しする。
財産構造。Relayのエスクローと暗号通貨。鍵は分散した。だがアクセス権はまだ自分にある。
アクセス権。七万人のデータに触れる権限。これを分散するには——Relayの設計を根本から変える必要がある。
守る順番。家族。隼人。学校。Relayの利用者。燈子。
全部は守れない。
分かっている。分かっているが——十七歳で、この棚卸しをしなければならないことが、少しだけ腹が立った。
自宅に着いた。「ただいま」。
「おかえり。遅かったね」
母親がリビングから顔を出した。エプロン。夕食の支度。
「友達と勉強してた」
「そう。——ご飯、もうすぐできるわよ」
普通の会話。普通の夕食。普通の家族。
この普通を守る順番に入れなければならない。
部屋に戻った。ノートを開いた。
三つの怖いものを書き直した。その下に、一行だけ書き加えた。
「守る順番を決める。でも誰にも見せない」