一週間、何も起きなかった。
市川からの連絡は止まった。不審な尾行もない。スマートフォンに変なメッセージも来ない。
直人は普通に学校に行き、普通に授業を受け、普通に帰宅した。マルチシグの鍵の分散も完了していた。五本のうち三本を協力者に送信し、一本は自分の手元に、一本は暗号化して別の場所に保管した。
平穏だった。平穏すぎた。
燈子に聞いた。「静かなのは良いことですか」
燈子の返事。「嵐の前よ。——来るわよ」
来た。
火曜日の放課後。直人がマンションに帰ると、エントランスのソファに男が座っていた。
五十代。白髪交じりの短髪。紺のスーツ。磨かれた革靴。手にはクリアファイル。新聞を読んでいた。
直人を見て、男は新聞を畳んだ。立ち上がった。
「奥谷直人くんですね」
本名を呼ばれた。市川は「奥谷さん」と呼んでいた。この男は「奥谷直人くん」。フルネームに「くん」。高校生に対する大人の呼び方。
「どなたですか」
「須藤と申します。お時間少しよろしいですか」
須藤は名刺を差し出した。市川の名刺とは紙の質が違った。厚みがあり、文字のフォントが上品だ。「須藤清彦 顧問」。会社名は「鳳凰リサーチ」。住所は千代田区。
「何のご用件ですか」
「立ち話もなんですから——近くの喫茶店にでも」
「ここで結構です」
燈子に教わった。「相手の選んだ場所に行くな。移動するな」。
須藤は少しだけ目を細めた。それから微笑んだ。
「では手短に。——市川という人間が、あなたに失礼なことをしたようで。お詫びに参りました」
お詫び。
「市川さんとはどういう関係ですか」
「業務委託先です。彼に調査を依頼していたのですが——手法が粗すぎた。私どもの本意ではありません」
業務委託。市川は須藤の下請けだった。燈子が読んだ通りだ。元請けが来た。
「調査の目的は何ですか」
「Relayというサービスに関心を持っています。純粋にビジネスとして」
「Relayは非営利です。ビジネスの対象にはなりません」
「そうですか。——ですが、非営利であっても運営コストはかかるでしょう。サーバー代。ドメイン。暗号化のインフラ。それを十七歳の学生が個人で負担している。月額で——十五万ほどですか」
金額が正確だった。月額十五万二千円。ほぼ合っている。
この男はRelayの運営コストを知っている。
「正確な数字ですね」
「調べました。公開情報から推測できる範囲ですが」
嘘だ。公開情報だけでは月額コストまで特定できない。サーバーの構成を知っていなければ出ない数字だ。
「須藤さん。率直に聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたの後ろにいるのは、誰ですか」
須藤の表情が変わらなかった。微笑んだまま。
「後ろ、ですか」
「市川さんの後ろにあなたがいた。あなたの後ろには——誰がいますか」
「私は鳳凰リサーチの顧問です。クライアントの名前は守秘義務がありますので——」
「分かりました」
直人はスマートフォンをポケットに入れた。録音はしている。燈子に教わった通り。
「須藤さん。今日のお話は代理人を通してお返事します。直接の連絡は控えてもらえますか」
「代理人?」
「御影コンサルティングの御影燈子です。名刺をお渡しします」
直人は燈子の名刺を差し出した。燈子から五枚もらっていた。「必要になるから」と。
須藤が名刺を受け取った。裏表を見た。
「御影燈子。——聞いたことがありますね」
その一言の含みが、直人には読めなかった。知っているのか。燈子を。
「では御影さんにご連絡します。——直人くん」
須藤が少しだけ声を落とした。
「大人の世界は——想像より退屈ですよ。怖いものがあるとすれば、暴力ではなく帳簿です。数字は感情で動かないから」
帳簿。数字。
須藤は軽く頭を下げて、マンションのエントランスを出た。タクシーが待っていた。乗り込んで去っていった。
直人はエントランスに一人残された。
スマートフォンを取り出した。燈子に録音を送った。メッセージを添えた。
『元請けが来ました。須藤清彦。鳳凰リサーチ。市川より格が上です。帳簿がどうとか言ってました』
返信は三分後。
『須藤清彦。知ってるわ。反社の経理屋よ。表向きはリサーチ会社、実態は裏社会の組織の会計と窓口を兼ねている。——市川より面倒。でも交渉はできる相手よ。会計屋は数字で動くから、数字で止められる』
反社の経理屋。
数字で動く。数字で止められる。
直人は自室に戻った。
反社にも経理がいる。報告書がある。コストと利益を計算する。脅迫の月額コストが二十万から三十万で、利益が見合わなければ撤退する。
組織。経理。帳簿。会社と同じだ。
怖いものは暴力ではなく帳簿。
須藤の言葉が頭に残った。退屈だが——的を射ている。
机の上に須藤の名刺を置いた。市川の名刺の隣に。二枚。紙質が違う。格が違う。
次は、さらに上が来るのだろうか。
燈子からの追加メッセージ。
『明日の放課後、公園で。須藤の対策を教えるわ。——あと、よくやったわね。一人で対応して、燈子の名刺を渡して、録音もした。合格よ』
合格。燈子に褒められたのは初めてだった。
だが嬉しさよりも、次の不安のほうが大きかった。