小説置き場

第17話「ヤクザにも経理がいるってマジ?」

3,951文字 約8分

一週間、何も起きなかった。

 市川からの連絡は止まった。不審な尾行もない。スマートフォンに変なメッセージも来ない。

 直人は普通に学校に行き、普通に授業を受け、普通に帰宅した。マルチシグの鍵の分散も完了していた。五本のうち三本を協力者に送信し、一本は自分の手元に、一本は暗号化して別の場所に保管した。

 平穏だった。平穏すぎた。

 燈子に聞いた。「静かなのは良いことですか」

 燈子の返事。「嵐の前よ。——来るわよ」

 来た。

 火曜日の放課後。直人がマンションに帰ると、エントランスのソファに男が座っていた。

 五十代。白髪交じりの短髪。紺のスーツ。磨かれた革靴。手にはクリアファイル。新聞を読んでいた。

 直人を見て、男は新聞を畳んだ。立ち上がった。

「奥谷直人くんですね」

 本名を呼ばれた。市川は「奥谷さん」と呼んでいた。この男は「奥谷直人くん」。フルネームに「くん」。高校生に対する大人の呼び方。

「どなたですか」

「須藤と申します。お時間少しよろしいですか」

 須藤は名刺を差し出した。市川の名刺とは紙の質が違った。厚みがあり、文字のフォントが上品だ。「須藤清彦 顧問」。会社名は「鳳凰リサーチ」。住所は千代田区。

「何のご用件ですか」

「立ち話もなんですから——近くの喫茶店にでも」

「ここで結構です」

 燈子に教わった。「相手の選んだ場所に行くな。移動するな」。

 須藤は少しだけ目を細めた。それから微笑んだ。

「では手短に。——市川という人間が、あなたに失礼なことをしたようで。お詫びに参りました」

 お詫び。

「市川さんとはどういう関係ですか」

「業務委託先です。彼に調査を依頼していたのですが——手法が粗すぎた。私どもの本意ではありません」

 業務委託。市川は須藤の下請けだった。燈子が読んだ通りだ。元請けが来た。

「調査の目的は何ですか」

「Relayというサービスに関心を持っています。純粋にビジネスとして」

「Relayは非営利です。ビジネスの対象にはなりません」

「そうですか。——ですが、非営利であっても運営コストはかかるでしょう。サーバー代。ドメイン。暗号化のインフラ。それを十七歳の学生が個人で負担している。月額で——十五万ほどですか」

 金額が正確だった。月額十五万二千円。ほぼ合っている。

 この男はRelayの運営コストを知っている。

「正確な数字ですね」

「調べました。公開情報から推測できる範囲ですが」

 嘘だ。公開情報だけでは月額コストまで特定できない。サーバーの構成を知っていなければ出ない数字だ。

「須藤さん。率直に聞いていいですか」

「どうぞ」

「あなたの後ろにいるのは、誰ですか」

 須藤の表情が変わらなかった。微笑んだまま。

「後ろ、ですか」

「市川さんの後ろにあなたがいた。あなたの後ろには——誰がいますか」

「私は鳳凰リサーチの顧問です。クライアントの名前は守秘義務がありますので——」

「分かりました」

 直人はスマートフォンをポケットに入れた。録音はしている。燈子に教わった通り。

「須藤さん。今日のお話は代理人を通してお返事します。直接の連絡は控えてもらえますか」

「代理人?」

「御影コンサルティングの御影燈子です。名刺をお渡しします」

 直人は燈子の名刺を差し出した。燈子から五枚もらっていた。「必要になるから」と。

 須藤が名刺を受け取った。裏表を見た。

「御影燈子。——聞いたことがありますね」

 その一言の含みが、直人には読めなかった。知っているのか。燈子を。

「では御影さんにご連絡します。——直人くん」

 須藤が少しだけ声を落とした。

「大人の世界は——想像より退屈ですよ。怖いものがあるとすれば、暴力ではなく帳簿です。数字は感情で動かないから」

 帳簿。数字。

 須藤は軽く頭を下げて、マンションのエントランスを出た。タクシーが待っていた。乗り込んで去っていった。

 直人はエントランスに一人残された。

 スマートフォンを取り出した。燈子に録音を送った。メッセージを添えた。

 『元請けが来ました。須藤清彦。鳳凰リサーチ。市川より格が上です。帳簿がどうとか言ってました』

 返信は三分後。

 『須藤清彦。知ってるわ。反社の経理屋よ。表向きはリサーチ会社、実態は裏社会の組織の会計と窓口を兼ねている。——市川より面倒。でも交渉はできる相手よ。会計屋は数字で動くから、数字で止められる』

 反社の経理屋。

 数字で動く。数字で止められる。

 直人は自室に戻った。

 反社にも経理がいる。報告書がある。コストと利益を計算する。脅迫の月額コストが二十万から三十万で、利益が見合わなければ撤退する。

 組織。経理。帳簿。会社と同じだ。

 怖いものは暴力ではなく帳簿。

 須藤の言葉が頭に残った。退屈だが——的を射ている。

 机の上に須藤の名刺を置いた。市川の名刺の隣に。二枚。紙質が違う。格が違う。

 次は、さらに上が来るのだろうか。

 燈子からの追加メッセージ。

 『明日の放課後、公園で。須藤の対策を教えるわ。——あと、よくやったわね。一人で対応して、燈子の名刺を渡して、録音もした。合格よ』

 合格。燈子に褒められたのは初めてだった。

 だが嬉しさよりも、次の不安のほうが大きかった。