学校にいた。普通に。
四時間目の数学。微分。接線の傾きが何を意味するか。黒板に数式が並んでいる。直人はノートを開いていた。ペンを持っていた。だが微分の問題を解いている頭と、カフェで交渉している燈子のことを考える頭が、同時に動いていた。
今日の午後三時。霞崎駅南口のカフェ。市川が直人を待っている——はずだったが、現れるのは燈子だ。
直人は学校にいる。燈子の指示通り。普通の高校生をしている。
隣の席で隼人がシャーペンを回している。器用だ。くるくる。指の間を抜けて、手の甲を転がって、また指に戻る。
「なおと。三十二ページの問4、分かる?」
「限界がゼロに近づくときの——」
「日本語で」
「……グラフの傾きを計算する問題」
「ああ、それ」
隼人はシャーペンを止めてノートに向かった。何事もないように。
何事もないように——が、最近の直人には一番難しい。
午後三時。直人は自分のスマートフォンを見ていた。放課後。教室に残って、机の上のスマートフォンをじっと見ている。
燈子から連絡が来るまで。
三時十五分。メッセージ。
『終わった。録音送る。聞いて。帰ったらまた話す』
音声ファイルが添付されていた。十二分。
イヤホンを装着した。再生ボタンを押した。
最初の三十秒は環境音。カフェの雑踏。食器の音。BGM。
それから——男の声。
「奥谷さんはいらっしゃらないんですね」
市川の声。丁寧だが、表面だけだ。中身は平坦。
「代理です。以降の連絡と交渉は私を通してください」
燈子の声。穏やかだ。だが芯がある。
「失礼ですが、あなたは——」
「名刺です。御影コンサルティング。御影燈子。——市川さんの名刺もいただけますか?」
「前回お渡ししたかと」
「私には渡していただいてないわ」
二秒の間。名刺を交換する気配。
「御影さん。率直に申し上げます。私たちが奥谷さんに提供できる情報があります。Relayの利用者の匿名性に関する——」
「その件でしたら、既に確認済みです。匿名性の突破は起きていません。アクセスログを全件確認しました。市川さんの情報は——善意に解釈すれば誤認、そうでなければ虚偽ですね」
三秒の沈黙。
「……確認されたんですか」
「当然でしょう。——市川さん。今日は情報提供の話ではなく、別の話をしたいのですが」
「何でしょう」
「撤退の話です」
撤退。燈子はそう言った。
「奥谷に対するアプローチを、今日を最後にしてください」
「それは——」
「理由は三つ。一つ。Relayのマルチシグ鍵は分散されました。奥谷個人を確保しても、全権限は得られません。コストに見合わなくなりました」
「分散——」
「二つ。奥谷は未成年です。脅迫の対象として未成年を選ぶことは、法的リスクが飛躍的に上がります。刑事事件になった場合、未成年への脅迫は量刑が重くなる」
「脅迫はしていません」
「情報提供の名目での接触は、継続的に行えば威力業務妨害に該当する可能性があります。——三つ」
燈子の声のトーンが、わずかに変わった。
「市川さん。あなたの元請けの名前は、私も把握しつつあります。あなた個人のコストとリスクを考えたとき、撤退が最も合理的だと——そう思いませんか」
五秒の沈黙。
市川の声が返ってきた。穏やかさが消えていた。
「御影さん。あなたは——何者ですか」
「名刺に書いてある通りです。コンサルタント」
「コンサルタント。——では、コンサルタントとして申し上げます。私は二次請けです。おっしゃる通り。ですが元請けは——私が撤退しても別の人間を送ります。私で終わりではありません」
「知っています」
「知っていて——私に撤退しろと?」
「あなたに撤退してもらうことで、元請けにメッセージを送っているんです。『末端が撤退するほどコストに見合わない案件だ』という」
市川が笑った。低い、乾いた笑い。
「巧いですね、御影さん。——分かりました。今日の件は元請けに報告します。私から直接、奥谷さんに連絡することは控えます。ただし——」
「ただし?」
「次に来るのは、私のような人間ではありませんよ。もっと——丁寧な人が来ます。スーツと契約書と、きれいな言葉を持って」
「知っています」
「ご健闘を」
音声が途切れた。カフェのBGMが流れて、録音が終わった。
直人はイヤホンを外した。
教室の窓から、夕方の光が差し込んでいた。十一月の日没は早い。四時半でもう暗くなりかけている。
市川は撤退する。だが——終わりではない。次が来る。「もっと丁寧な人」。スーツと契約書。
直人のスマートフォンが震えた。隼人から。
『部活終わった。ラーメン行かない?』
直人は返信を打った。
『行く』
普通のふり。——ではなく。ラーメンは本当に食べたかった。
昇降口で隼人と合流した。
「なおと。顔色悪くないか」
「そうか?」
「勉強のしすぎだろ。数学、難しかったもんな」
「……うん。数学の問題が」
嘘ではない。微分の問題も解けなかった。市川の問題も解けなかった。
駅前のラーメン屋。味噌ラーメン。隼人はチャーシュー増し。直人は普通盛り。
「あのさ、なおと」
「ん」
「最近、放課後残ってスマホ見てること多いよな。誰かとやり取りしてる?」
隼人の目。いつもの穏やかな目だが——観察している。
「勉強のアプリ」
「嘘くさ」
隼人が笑った。追及はしない。それが隼人だ。踏み込みすぎない。だが——見ている。
ラーメンを食べた。熱い。味噌の味が舌に染みた。
燈子の言葉が頭に残っている。「次に来るのは、私のような人間ではない」。市川の言葉も残っている。「もっと丁寧な人が来る」。
どちらも同じことを言っている。
市川は前座だった。本番はこれからだ。