小説置き場

第16話「代理出席って反則じゃないの」

4,910文字 約10分

学校にいた。普通に。

 四時間目の数学。微分。接線の傾きが何を意味するか。黒板に数式が並んでいる。直人はノートを開いていた。ペンを持っていた。だが微分の問題を解いている頭と、カフェで交渉している燈子のことを考える頭が、同時に動いていた。

 今日の午後三時。霞崎駅南口のカフェ。市川が直人を待っている——はずだったが、現れるのは燈子だ。

 直人は学校にいる。燈子の指示通り。普通の高校生をしている。

 隣の席で隼人がシャーペンを回している。器用だ。くるくる。指の間を抜けて、手の甲を転がって、また指に戻る。

「なおと。三十二ページの問4、分かる?」

「限界がゼロに近づくときの——」

「日本語で」

「……グラフの傾きを計算する問題」

「ああ、それ」

 隼人はシャーペンを止めてノートに向かった。何事もないように。

 何事もないように——が、最近の直人には一番難しい。

 午後三時。直人は自分のスマートフォンを見ていた。放課後。教室に残って、机の上のスマートフォンをじっと見ている。

 燈子から連絡が来るまで。

 三時十五分。メッセージ。

 『終わった。録音送る。聞いて。帰ったらまた話す』

 音声ファイルが添付されていた。十二分。

 イヤホンを装着した。再生ボタンを押した。

 最初の三十秒は環境音。カフェの雑踏。食器の音。BGM。

 それから——男の声。

「奥谷さんはいらっしゃらないんですね」

 市川の声。丁寧だが、表面だけだ。中身は平坦。

「代理です。以降の連絡と交渉は私を通してください」

 燈子の声。穏やかだ。だが芯がある。

「失礼ですが、あなたは——」

「名刺です。御影コンサルティング。御影燈子。——市川さんの名刺もいただけますか?」

「前回お渡ししたかと」

「私には渡していただいてないわ」

 二秒の間。名刺を交換する気配。

「御影さん。率直に申し上げます。私たちが奥谷さんに提供できる情報があります。Relayの利用者の匿名性に関する——」

「その件でしたら、既に確認済みです。匿名性の突破は起きていません。アクセスログを全件確認しました。市川さんの情報は——善意に解釈すれば誤認、そうでなければ虚偽ですね」

 三秒の沈黙。

「……確認されたんですか」

「当然でしょう。——市川さん。今日は情報提供の話ではなく、別の話をしたいのですが」

「何でしょう」

「撤退の話です」

 撤退。燈子はそう言った。

「奥谷に対するアプローチを、今日を最後にしてください」

「それは——」

「理由は三つ。一つ。Relayのマルチシグ鍵は分散されました。奥谷個人を確保しても、全権限は得られません。コストに見合わなくなりました」

「分散——」

「二つ。奥谷は未成年です。脅迫の対象として未成年を選ぶことは、法的リスクが飛躍的に上がります。刑事事件になった場合、未成年への脅迫は量刑が重くなる」

「脅迫はしていません」

「情報提供の名目での接触は、継続的に行えば威力業務妨害に該当する可能性があります。——三つ」

 燈子の声のトーンが、わずかに変わった。

「市川さん。あなたの元請けの名前は、私も把握しつつあります。あなた個人のコストとリスクを考えたとき、撤退が最も合理的だと——そう思いませんか」

 五秒の沈黙。

 市川の声が返ってきた。穏やかさが消えていた。

「御影さん。あなたは——何者ですか」

「名刺に書いてある通りです。コンサルタント」

「コンサルタント。——では、コンサルタントとして申し上げます。私は二次請けです。おっしゃる通り。ですが元請けは——私が撤退しても別の人間を送ります。私で終わりではありません」

「知っています」

「知っていて——私に撤退しろと?」

「あなたに撤退してもらうことで、元請けにメッセージを送っているんです。『末端が撤退するほどコストに見合わない案件だ』という」

 市川が笑った。低い、乾いた笑い。

「巧いですね、御影さん。——分かりました。今日の件は元請けに報告します。私から直接、奥谷さんに連絡することは控えます。ただし——」

「ただし?」

「次に来るのは、私のような人間ではありませんよ。もっと——丁寧な人が来ます。スーツと契約書と、きれいな言葉を持って」

「知っています」

「ご健闘を」

 音声が途切れた。カフェのBGMが流れて、録音が終わった。

 直人はイヤホンを外した。

 教室の窓から、夕方の光が差し込んでいた。十一月の日没は早い。四時半でもう暗くなりかけている。

 市川は撤退する。だが——終わりではない。次が来る。「もっと丁寧な人」。スーツと契約書。

 直人のスマートフォンが震えた。隼人から。

 『部活終わった。ラーメン行かない?』

 直人は返信を打った。

 『行く』

 普通のふり。——ではなく。ラーメンは本当に食べたかった。

 昇降口で隼人と合流した。

「なおと。顔色悪くないか」

「そうか?」

「勉強のしすぎだろ。数学、難しかったもんな」

「……うん。数学の問題が」

 嘘ではない。微分の問題も解けなかった。市川の問題も解けなかった。

 駅前のラーメン屋。味噌ラーメン。隼人はチャーシュー増し。直人は普通盛り。

「あのさ、なおと」

「ん」

「最近、放課後残ってスマホ見てること多いよな。誰かとやり取りしてる?」

 隼人の目。いつもの穏やかな目だが——観察している。

「勉強のアプリ」

「嘘くさ」

 隼人が笑った。追及はしない。それが隼人だ。踏み込みすぎない。だが——見ている。

 ラーメンを食べた。熱い。味噌の味が舌に染みた。

 燈子の言葉が頭に残っている。「次に来るのは、私のような人間ではない」。市川の言葉も残っている。「もっと丁寧な人が来る」。

 どちらも同じことを言っている。

 市川は前座だった。本番はこれからだ。