小説置き場

第15話「一番悪い手」

2,399文字 約5分

市川からメッセージが来た。

 メインのスマートフォンに。知らない番号。

 『奥谷さん。お話ししたいことがあります。お時間いただけますか』

 丁寧だった。前回の接触よりも。脅迫めいたトーンは消えている。代わりにビジネスメールのような文体。

 直人は燈子に転送した。

 燈子の返信。

 『無視。返信するな』

 無視した。

 翌日。また来た。

 『Relayの利用者の安全について、重要な情報を持っています。お話しする価値はあると思います』

 利用者の安全。

 直人の指が止まった。

 利用者の安全。七万人。DV被害者。借金に苦しむ人。居場所のない若者。彼らの安全に関する情報——。

 燈子に転送した。

 燈子の返信。

 『餌よ。返信するな。利用者の安全を人質にして、あんたを引っ張り出そうとしてる』

 分かっている。分かっている——が。

 もし本当に利用者の安全に関わる情報があったら。無視したせいで誰かが傷ついたら。

 三日目。

 『具体的に申し上げます。Relay利用者の一部の匿名性が、第三者によって突破されつつあります。私たちはその情報を持っています。お会いいただければ、提供できます』

 匿名性が突破されつつある。

 直人の心臓が跳ねた。

 Relayの利用者の匿名性は、直人が設計したプロトコルで守られている。もしそれが突破されているなら——利用者の本名や住所が敵に渡る。DV被害者の居場所が。借金で追われている人間の所在が。

 直人は返信を打ちかけた。

 「詳しく聞かせてください」

 指が送信ボタンの上にある。

 三秒。五秒。

 送信した。

 三分後。市川から返信。

 『ありがとうございます。明日の午後三時、霞崎駅南口のカフェでお待ちしています。お一人でお越しください』

 お一人で。

 直人は自分のスマートフォンを見つめた。

 やってしまった。

 燈子に連絡した。電話。

「直人くん。何があったの」

「市川に返信しました」

 三秒の沈黙。

「……部屋にいなさい。今から行くわ」

 三十分後。自宅のインターホンが鳴った。燈子が来た。制服姿の直人の自室に入ることはせず、マンションの一階のエントランスのベンチに座った。

「全部見せて」

 直人はスマートフォンを渡した。市川とのやり取り。

 燈子は読んだ。表情が変わらなかった。

「一番悪い手を打ったわね」

「利用者の匿名性が突破されてるって——」

「嘘よ」

「嘘?」

「嘘。あるいは、嘘ではないが真実でもないわ。匿名性の突破が部分的に起きていたとしても、市川がその情報をタダであんたに渡す理由がないもの」

「でも——もし本当だったら」

「本当だったとしても、市川に会って何ができるの? あんたはエンジニアでしょう。匿名性の強化はコードで対処できるわ。市川に情報をもらう必要はないの。あんた自身がログを確認すれば——」

「確認できます。匿名性の突破が起きているなら、アクセスログに痕跡が残る」

「でしょう。じゃあなぜ市川に返信したの」

「利用者が危ないかもしれないと思って——」

「善意ね」

 善意。

「善意は美しいわ。でも善意には判断力がないの。あんたは『利用者が危ない』と聞いた瞬間に、冷静な判断を放棄したわ。『本当か嘘か確認する手段が自分にある』ことを忘れたのよ。相手に確認を委ねた」

「……はい」

「これが一番悪い手。相手に情報の確認を委ねること。あんたが自分で確認できることを、相手に教えてもらおうとすること。——それは依存よ。依存する人間は操作される」

 直人は黙った。

 善意の譲歩。利用者を守りたいという気持ちが、判断を歪めた。

「返信を取り消すことはできません」

「できないわ。もう市川はあんたが反応することを知ったの。『利用者の安全』というカードを切れば、あんたが出てくる。次もそれで釣られるわよ」

「じゃあ——どうすれば」

「明日のカフェには行かないで。返信もしないこと。——代わりに、今夜中にRelayのアクセスログを全部確認しなさい。匿名性の突破が本当に起きているかどうか、自分の目で」

「分かりました」

「それと——市川には私から連絡を入れるわ。あんたの名前は出さない。『依頼者の代理人として交渉する』と伝えるの。明日のカフェには私が行くわ」

「燈子さんが?」

「ビジネスの関係でしょう。交渉代行は見積書に入ってるわ。一件二十万よ」

 二十万。

「今はまだ後払いだから安心しなさい。——ただし、次に善意で動いたら、割増料金を請求するわよ」

 燈子は立ち上がった。

「今夜、ログを全部確認。結果を朝までに報告。——できるわね」

「できます」

「やりなさい」

 燈子が去った。エントランスから夜の空気が入ってきた。十月の冷たさ。

 直人は自室に戻った。パソコンを開いた。

 Relayのアクセスログ。七万ユーザーのアクセスパターン。異常な接続、不正なクエリ、認証の失敗。一つずつ確認する。

 三時間後。

 結論が出た。

 匿名性の突破は起きていなかった。

 アクセスログにはいくつかの不審なクエリがあったが、いずれも外部からの自動スキャン(ボットによる無差別アクセス)で、Relayのプロトコルに到達する前にブロックされていた。匿名性は維持されている。

 市川の情報は——嘘だった。

 正確には、「突破されつつある」という表現が嘘。突破の試みはある(それはインターネット上のどんなサービスにもある)。だが成功していない。

 半分の真実で、全体の嘘を作る。

 直人は燈子に報告した。

 『ログ確認完了。匿名性の突破は起きていません。市川の情報は虚偽です』

 返信。

 『予想通りね。——明日は私が行くわ。あんたは学校に行きなさい。普通の高校生をしてなさい』

 普通の高校生。

 直人はパソコンを閉じた。ベッドに入った。

 善意で動いた。善意で最悪の手を打った。善意が判断を奪った。

 燈子の言葉が頭に残っている。「善意には判断力がない」。

 反省した。だが——反省だけでは足りない。次に同じカードを切られたとき、善意を止められるか。

 分からない。

 分からないが——まず、自分で確認する。相手に委ねない。

 それだけは、今夜覚えた。