市川からメッセージが来た。
メインのスマートフォンに。知らない番号。
『奥谷さん。お話ししたいことがあります。お時間いただけますか』
丁寧だった。前回の接触よりも。脅迫めいたトーンは消えている。代わりにビジネスメールのような文体。
直人は燈子に転送した。
燈子の返信。
『無視。返信するな』
無視した。
翌日。また来た。
『Relayの利用者の安全について、重要な情報を持っています。お話しする価値はあると思います』
利用者の安全。
直人の指が止まった。
利用者の安全。七万人。DV被害者。借金に苦しむ人。居場所のない若者。彼らの安全に関する情報——。
燈子に転送した。
燈子の返信。
『餌よ。返信するな。利用者の安全を人質にして、あんたを引っ張り出そうとしてる』
分かっている。分かっている——が。
もし本当に利用者の安全に関わる情報があったら。無視したせいで誰かが傷ついたら。
三日目。
『具体的に申し上げます。Relay利用者の一部の匿名性が、第三者によって突破されつつあります。私たちはその情報を持っています。お会いいただければ、提供できます』
匿名性が突破されつつある。
直人の心臓が跳ねた。
Relayの利用者の匿名性は、直人が設計したプロトコルで守られている。もしそれが突破されているなら——利用者の本名や住所が敵に渡る。DV被害者の居場所が。借金で追われている人間の所在が。
直人は返信を打ちかけた。
「詳しく聞かせてください」
指が送信ボタンの上にある。
三秒。五秒。
送信した。
三分後。市川から返信。
『ありがとうございます。明日の午後三時、霞崎駅南口のカフェでお待ちしています。お一人でお越しください』
お一人で。
直人は自分のスマートフォンを見つめた。
やってしまった。
燈子に連絡した。電話。
「直人くん。何があったの」
「市川に返信しました」
三秒の沈黙。
「……部屋にいなさい。今から行くわ」
三十分後。自宅のインターホンが鳴った。燈子が来た。制服姿の直人の自室に入ることはせず、マンションの一階のエントランスのベンチに座った。
「全部見せて」
直人はスマートフォンを渡した。市川とのやり取り。
燈子は読んだ。表情が変わらなかった。
「一番悪い手を打ったわね」
「利用者の匿名性が突破されてるって——」
「嘘よ」
「嘘?」
「嘘。あるいは、嘘ではないが真実でもないわ。匿名性の突破が部分的に起きていたとしても、市川がその情報をタダであんたに渡す理由がないもの」
「でも——もし本当だったら」
「本当だったとしても、市川に会って何ができるの? あんたはエンジニアでしょう。匿名性の強化はコードで対処できるわ。市川に情報をもらう必要はないの。あんた自身がログを確認すれば——」
「確認できます。匿名性の突破が起きているなら、アクセスログに痕跡が残る」
「でしょう。じゃあなぜ市川に返信したの」
「利用者が危ないかもしれないと思って——」
「善意ね」
善意。
「善意は美しいわ。でも善意には判断力がないの。あんたは『利用者が危ない』と聞いた瞬間に、冷静な判断を放棄したわ。『本当か嘘か確認する手段が自分にある』ことを忘れたのよ。相手に確認を委ねた」
「……はい」
「これが一番悪い手。相手に情報の確認を委ねること。あんたが自分で確認できることを、相手に教えてもらおうとすること。——それは依存よ。依存する人間は操作される」
直人は黙った。
善意の譲歩。利用者を守りたいという気持ちが、判断を歪めた。
「返信を取り消すことはできません」
「できないわ。もう市川はあんたが反応することを知ったの。『利用者の安全』というカードを切れば、あんたが出てくる。次もそれで釣られるわよ」
「じゃあ——どうすれば」
「明日のカフェには行かないで。返信もしないこと。——代わりに、今夜中にRelayのアクセスログを全部確認しなさい。匿名性の突破が本当に起きているかどうか、自分の目で」
「分かりました」
「それと——市川には私から連絡を入れるわ。あんたの名前は出さない。『依頼者の代理人として交渉する』と伝えるの。明日のカフェには私が行くわ」
「燈子さんが?」
「ビジネスの関係でしょう。交渉代行は見積書に入ってるわ。一件二十万よ」
二十万。
「今はまだ後払いだから安心しなさい。——ただし、次に善意で動いたら、割増料金を請求するわよ」
燈子は立ち上がった。
「今夜、ログを全部確認。結果を朝までに報告。——できるわね」
「できます」
「やりなさい」
燈子が去った。エントランスから夜の空気が入ってきた。十月の冷たさ。
直人は自室に戻った。パソコンを開いた。
Relayのアクセスログ。七万ユーザーのアクセスパターン。異常な接続、不正なクエリ、認証の失敗。一つずつ確認する。
三時間後。
結論が出た。
匿名性の突破は起きていなかった。
アクセスログにはいくつかの不審なクエリがあったが、いずれも外部からの自動スキャン(ボットによる無差別アクセス)で、Relayのプロトコルに到達する前にブロックされていた。匿名性は維持されている。
市川の情報は——嘘だった。
正確には、「突破されつつある」という表現が嘘。突破の試みはある(それはインターネット上のどんなサービスにもある)。だが成功していない。
半分の真実で、全体の嘘を作る。
直人は燈子に報告した。
『ログ確認完了。匿名性の突破は起きていません。市川の情報は虚偽です』
返信。
『予想通りね。——明日は私が行くわ。あんたは学校に行きなさい。普通の高校生をしてなさい』
普通の高校生。
直人はパソコンを閉じた。ベッドに入った。
善意で動いた。善意で最悪の手を打った。善意が判断を奪った。
燈子の言葉が頭に残っている。「善意には判断力がない」。
反省した。だが——反省だけでは足りない。次に同じカードを切られたとき、善意を止められるか。
分からない。
分からないが——まず、自分で確認する。相手に委ねない。
それだけは、今夜覚えた。