小説置き場

第14話「秘密鍵、ひとりで持ちすぎ問題」

2,327文字 約5分

場所は公園のベンチだった。

 霞崎区の南にある小さな公園。遊具は滑り台とブランコだけ。平日の午後、子供はいない。

 燈子が「技術の話をする場所は屋内より屋外がいい。盗聴されにくい」と言った。

「Relayの設計を教えて」

「どこまで?」

「全部よ。技術の詳細じゃなくていいわ。仕組みとして、何ができて、何が弱点か」

 直人はノートを出した。紙のノート。デジタルには記録しない。燈子に教わった。

「Relayは分散型の相互扶助ネットワークです。ブロックチェーン上に構築されていて、中央サーバーはありません」

「中央サーバーがないということは」

「誰か一人が止めても、ネットワーク全体は止まらない。参加者全員がデータの一部を持っている。——だから強い」

「で、弱いのは?」

「管理権限です。ネットワーク自体は分散しているけど、ルールの変更——たとえば新しい機能の追加や、利用規約の更新——には管理者の署名が要る。マルチシグと言って、複数の鍵のうち一定数以上の署名がないと実行できない仕組み」

「その鍵を持っている人間は何人」

「……一人」

 燈子が直人を見た。

「一人。——あんた一人?」

「はい。マルチシグの閾値は三分の二に設定してありますが、鍵は五本で、五本とも僕が持っています」

「それはマルチシグじゃない。ただの一人独裁よ」

「分かってます。本来は五人の管理者がそれぞれ鍵を持つべきだった。でもRelayの初期メンバーは——僕しかいなかった。中学生のとき一人で作って、一人で育てた。途中から参加した人間もいたけど、鍵を預けるほど信頼できる相手が——」

「見つからなかった」

「はい」

 公園のベンチ。風が吹いている。木の葉が揺れる。

「つまり、あんたを脅迫すれば——Relayの全権限を奪えるってことね」

「はい」

「あんたのパスワードと、暗号キーの保管場所が分かれば——」

「七万人のネットワークを乗っ取れます」

 燈子が足を組み替えた。

「市川たちがあんたに執着している理由はそれね。あんた個人に価値がある。代替不能な鍵を持っている。あんたを確保すれば——」

「Relayの全権限が手に入る。エスクローの資金も。利用者の匿名データも」

「いくら?」

「エスクローには——三千万くらい。利用者の匿名データは、もし名寄せできれば——値段がつかないくらいの価値がある」

 燈子が黙った。五秒。

「三千万と七万人分のデータ。——あんた、それを十七歳一人で抱えてたわけ」

「抱えてました」

「馬鹿ね」

「分かってます」

「分かってないわよ。分かってたらとっくに分散させてるでしょう。——今週中にマルチシグの閾値を変えると言ったわね」

「はい。五本の鍵のうち三本を、別の人間に渡します。署名に必要な閾値を三分の二のままにすれば、僕一人では何もできなくなる。僕を脅しても、残りの二人が署名しなければ——」

「権限は動かない。あんたの価値が下がるわ。価値が下がれば、脅迫する意味がなくなるの」

「そういうことです」

「鍵を渡す相手は決めた?」

「三人の候補がいます。全員、Relayの初期から参加している匿名の協力者。顔は知りません。ハンドルネームだけ」

「顔を知らない人間に鍵を預けるの」

「鍵はブロックチェーン上で送信します。物理的に会う必要はない。相手の本名も住所も知らなくていい。暗号技術で——」

「技術的には安全。でも人間としては?」

 直人は黙った。

「三人の候補。彼らが信頼できる根拠は」

「二年間、一緒にRelayを運営してきた実績です。問題が起きたとき、逃げなかった。金が動いたとき、着服しなかった。——僕はそれを信頼と呼んでいます」

「会ったこともない人間の行動履歴を信頼と呼ぶ。——ブロックチェーン的ね」

「はい」

「いいわ。それで進めて。——ただし一つ条件」

「何ですか」

「五本のうち一本は、あんたが持ち続けなさい。完全に手放さないこと」

「なぜ」

「完全に手放したら、あんたはRelayに対して何もできなくなるわ。もし鍵を預けた三人のうち誰かが裏切ったとき——あんたの票がなければ、止められないのよ」

「でも、僕が鍵を持ち続けたら、僕に価値が残る。脅迫の理由になる」

「五分の一の価値と五分の五の価値は違う。五分の一なら、あんた一人を脅しても意味がない。でもゼロにしたら——もし三人が結託したとき、あんたは傍観者にしかなれない」

 直人は考えた。

 自分が作ったものを、完全に手放す恐怖。自分の手元に一本だけ残す覚悟。

「……分かりました。一本だけ残します」

「よろしい。——今週中よ」

 公園を出た。今日は並んで歩いた。燈子が珍しく同じ方向だった。

「燈子さん。一つ聞いていいですか」

「何」

「僕が鍵を分散させたら——市川たちは本当に撤退しますか」

「するわ。あんた個人の価値が下がれば、コストに見合わなくなるもの。脅迫は採算が合わなくなって自然に終わるわよ。——ただし」

「ただし?」

「次に来るのは、脅迫じゃない。提携よ。正式な提携の申し込み。スーツと名刺と契約書。鍵が分散していても——Relayの影響力自体は残る。七万人のネットワーク。それを欲しがる人間は、市川の後ろにもっといる」

「それは——」

「先の話。今は目の前の市川を片付ける。一つずつ」

 一つずつ。順番。燈子の教え。

 帰宅。「ただいま」。父親がキッチンで惣菜を並べていた。今日は父親の担当日。

「お兄ちゃん遅くない?」

「ちょっと公園で友達と」

「公園? 小学生?」

 妹のツッコミが鋭い。

「……勉強してた」

「嘘つけー」

 自室に入った。パソコンを開いた。

 マルチシグの鍵。五本。

 三本を渡す。一本を残す。一本は予備として暗号化して保管する。

 設計者として、最後の仕事。自分の設計を、自分で書き換える。

 キーボードに指を置いた。

 コードを書き始めた。