場所は公園のベンチだった。
霞崎区の南にある小さな公園。遊具は滑り台とブランコだけ。平日の午後、子供はいない。
燈子が「技術の話をする場所は屋内より屋外がいい。盗聴されにくい」と言った。
「Relayの設計を教えて」
「どこまで?」
「全部よ。技術の詳細じゃなくていいわ。仕組みとして、何ができて、何が弱点か」
直人はノートを出した。紙のノート。デジタルには記録しない。燈子に教わった。
「Relayは分散型の相互扶助ネットワークです。ブロックチェーン上に構築されていて、中央サーバーはありません」
「中央サーバーがないということは」
「誰か一人が止めても、ネットワーク全体は止まらない。参加者全員がデータの一部を持っている。——だから強い」
「で、弱いのは?」
「管理権限です。ネットワーク自体は分散しているけど、ルールの変更——たとえば新しい機能の追加や、利用規約の更新——には管理者の署名が要る。マルチシグと言って、複数の鍵のうち一定数以上の署名がないと実行できない仕組み」
「その鍵を持っている人間は何人」
「……一人」
燈子が直人を見た。
「一人。——あんた一人?」
「はい。マルチシグの閾値は三分の二に設定してありますが、鍵は五本で、五本とも僕が持っています」
「それはマルチシグじゃない。ただの一人独裁よ」
「分かってます。本来は五人の管理者がそれぞれ鍵を持つべきだった。でもRelayの初期メンバーは——僕しかいなかった。中学生のとき一人で作って、一人で育てた。途中から参加した人間もいたけど、鍵を預けるほど信頼できる相手が——」
「見つからなかった」
「はい」
公園のベンチ。風が吹いている。木の葉が揺れる。
「つまり、あんたを脅迫すれば——Relayの全権限を奪えるってことね」
「はい」
「あんたのパスワードと、暗号キーの保管場所が分かれば——」
「七万人のネットワークを乗っ取れます」
燈子が足を組み替えた。
「市川たちがあんたに執着している理由はそれね。あんた個人に価値がある。代替不能な鍵を持っている。あんたを確保すれば——」
「Relayの全権限が手に入る。エスクローの資金も。利用者の匿名データも」
「いくら?」
「エスクローには——三千万くらい。利用者の匿名データは、もし名寄せできれば——値段がつかないくらいの価値がある」
燈子が黙った。五秒。
「三千万と七万人分のデータ。——あんた、それを十七歳一人で抱えてたわけ」
「抱えてました」
「馬鹿ね」
「分かってます」
「分かってないわよ。分かってたらとっくに分散させてるでしょう。——今週中にマルチシグの閾値を変えると言ったわね」
「はい。五本の鍵のうち三本を、別の人間に渡します。署名に必要な閾値を三分の二のままにすれば、僕一人では何もできなくなる。僕を脅しても、残りの二人が署名しなければ——」
「権限は動かない。あんたの価値が下がるわ。価値が下がれば、脅迫する意味がなくなるの」
「そういうことです」
「鍵を渡す相手は決めた?」
「三人の候補がいます。全員、Relayの初期から参加している匿名の協力者。顔は知りません。ハンドルネームだけ」
「顔を知らない人間に鍵を預けるの」
「鍵はブロックチェーン上で送信します。物理的に会う必要はない。相手の本名も住所も知らなくていい。暗号技術で——」
「技術的には安全。でも人間としては?」
直人は黙った。
「三人の候補。彼らが信頼できる根拠は」
「二年間、一緒にRelayを運営してきた実績です。問題が起きたとき、逃げなかった。金が動いたとき、着服しなかった。——僕はそれを信頼と呼んでいます」
「会ったこともない人間の行動履歴を信頼と呼ぶ。——ブロックチェーン的ね」
「はい」
「いいわ。それで進めて。——ただし一つ条件」
「何ですか」
「五本のうち一本は、あんたが持ち続けなさい。完全に手放さないこと」
「なぜ」
「完全に手放したら、あんたはRelayに対して何もできなくなるわ。もし鍵を預けた三人のうち誰かが裏切ったとき——あんたの票がなければ、止められないのよ」
「でも、僕が鍵を持ち続けたら、僕に価値が残る。脅迫の理由になる」
「五分の一の価値と五分の五の価値は違う。五分の一なら、あんた一人を脅しても意味がない。でもゼロにしたら——もし三人が結託したとき、あんたは傍観者にしかなれない」
直人は考えた。
自分が作ったものを、完全に手放す恐怖。自分の手元に一本だけ残す覚悟。
「……分かりました。一本だけ残します」
「よろしい。——今週中よ」
公園を出た。今日は並んで歩いた。燈子が珍しく同じ方向だった。
「燈子さん。一つ聞いていいですか」
「何」
「僕が鍵を分散させたら——市川たちは本当に撤退しますか」
「するわ。あんた個人の価値が下がれば、コストに見合わなくなるもの。脅迫は採算が合わなくなって自然に終わるわよ。——ただし」
「ただし?」
「次に来るのは、脅迫じゃない。提携よ。正式な提携の申し込み。スーツと名刺と契約書。鍵が分散していても——Relayの影響力自体は残る。七万人のネットワーク。それを欲しがる人間は、市川の後ろにもっといる」
「それは——」
「先の話。今は目の前の市川を片付ける。一つずつ」
一つずつ。順番。燈子の教え。
帰宅。「ただいま」。父親がキッチンで惣菜を並べていた。今日は父親の担当日。
「お兄ちゃん遅くない?」
「ちょっと公園で友達と」
「公園? 小学生?」
妹のツッコミが鋭い。
「……勉強してた」
「嘘つけー」
自室に入った。パソコンを開いた。
マルチシグの鍵。五本。
三本を渡す。一本を残す。一本は予備として暗号化して保管する。
設計者として、最後の仕事。自分の設計を、自分で書き換える。
キーボードに指を置いた。
コードを書き始めた。