小説置き場

第13話「黒帯って課金アイテムじゃないらしい」

1,973文字 約4分

隼人が「見学に来い」と言った。「柔道部、今日対抗戦なんだよ。相手は隣町の高校。応援してくれよ」——断る理由がなかった。裏の仕事は今夜はない。燈子からの連絡もない。普通の放課後。

 体育館。畳が敷かれている。白い道着の集団が二つ。うちの学校と、隣町の高校。

 直人は観客席、と言ってもパイプ椅子が並んだだけの場所だが、そこに座った。他に応援はクラスメイトが三人。少ない。

「直人! 来てくれたのか!」

 隼人が道着姿で手を振った。白い道着。黒帯。笑顔。

 対抗戦が始まった。団体戦。先鋒から大将まで五人。隼人は中堅。三番目。

 先鋒と次鋒は——負けた。うちの学校は弱いらしい。隣町の方が部員も多いし、練習量も違う。

 隼人の番。

 畳の上に立った。相手は隼人より体格がいい。十センチは高い。肩幅も広い。

 礼。組み手。

 最初の二十秒。隼人は動かなかった。相手の袖と襟を握ったまま、ほとんど足を動かさない。

 相手が仕掛けてきた。大外刈り。足が隼人の軸足を刈りに来る。

 隼人が消えた。

 消えたように見えた。体の軸がほんの十センチだけ横にずれて、相手の技が空を切った。相手が体勢を崩した瞬間に、隼人の手が動いた。

 一瞬。投げ技。何の技か直人には分からなかった。体が持ち上がって、畳に叩きつけられた——相手が。

 一本。

 会場がどよめいた。隣町の応援席から「嘘だろ」という声が聞こえた。

 隼人が畳から出てきた。笑顔。いつもの隼人。

「直人、見てた?」

「見てた。すごかったな」

「いや、相手が突っ込んできたからさ。うまくいっただけ」

 うまくいっただけ。

 直人は柔道を知らない。でも——隼人の動きには違和感があった。

 体の軸がずれた瞬間。あれは反射だった。相手の技を見てから判断して動いたのではなく、相手の体重移動を感じて、無意識に回避した。反射速度が——普通じゃない。

 対抗戦は結局、隼人が一本勝ちしたものの、チームとしては二勝三敗で負けた。

「すまんな、負けちゃった」

「隼人は勝ったじゃん」

「俺が勝ってもチームが負けたら意味ねえよ」

 着替えて、校門を出た。二人でコンビニに寄った。隼人が肉まんを二つ買った。一つを直人に渡した。

「おごり。応援に来てくれたから」

「ありがとう」

 商店街を歩きながら食べた。秋の夕方。日が短くなっている。

「隼人。さっきの試合の——」

「ん?」

「相手の大外刈りをかわしたとき。あれ、見えてたの?」

「見えてない。体が勝手に動いた」

「体が勝手に」

「うん。親父に小さい頃から言われてたんだよ。『体に任せろ。頭で考えるな。体の方が頭より速い』って」

 親父。整体師「みたいなもの」をやっている隼人の父親。護身術の教室も。

「親父さん、すごい人なの?」

「すごいっていうか——変な人だよ。朝四時に起きて型の稽古してるし。休みの日は山に走りに行くし。整体の仕事以外に、よく分かんない人たちに護身術教えてるし」

「よく分かんない人たち?」

「うん。普通の主婦とか、サラリーマンとか。でもときどき——スーツの似合わないスーツの人が来る」

「スーツの似合わないスーツ」

「俺の印象だけど。体つきが服に合ってないっていうか。肩が広すぎるとか、手が大きすぎるとか」

 直人は肉まんを噛んだ。何も言わなかった。

「直人?」

「ん?」

「最近、顔色悪いぞ。また夜更かしか」

「まあね」

「飯ちゃんと食えよ。飯食わないと筋肉落ちるぞ」

「僕に筋肉ないけど」

「ないからこそ食え。——困ってることあったら言えよ。何でも」

 何でも。

 直人は隼人を見た。柔道の試合で一本勝ちした体。親父に鍛えられた反射神経。人の体調の変化を見抜く観察力。

 隼人は——普通の親友だ。普通に強くて、普通に優しくて、普通に明るい。

 でも隼人の「普通」は——直人の「普通」と違う位置にある。

「ありがとう。大丈夫だよ」

「嘘つくの下手だな、お前」

「嘘じゃない。——大丈夫じゃないけど、大丈夫にする」

 隼人が笑った。

「何それ。意味わかんねえ。——まあいいや。肉まんもう一個食うか?」

「いらない」

「じゃあ俺が食う」

 コンビニに戻って、隼人が三個目の肉まんを買った。よく食べる。代謝がいいのだろう。鍛えている体の代謝。

 帰り道の分かれ道。

「じゃあまた明日」

「おう。——直人」

「ん?」

「何かあったとき、俺は走るからな。どこにでも。——覚えとけ」

 隼人の目が一瞬だけ、試合のときと同じ色になった。焦点が合って、鋭くなる。

 一瞬で戻った。いつもの隼人の、ぼんやりした明るい目。

「じゃあな!」

 手を振って、走って帰っていった。速い。

 直人は一人で歩いた。

 何かあったとき、俺は走る。

 その言葉が——思ったより深いところに刺さった。

 自室に入って、日報を送った。

 『異常なし。今日は普通の放課後でした』

 返信はなかった。燈子は忙しいのかもしれない。

 普通の放課後。隼人と肉まんを食べた放課後。

 普通が——どれだけ貴重か。裏側を知ってしまった今は、分かる。