小説置き場

第10話「ブロックの仕方を大人に習う」

2,196文字 約5分

放課後。いつものカフェ。

 だが今日は座らなかった。燈子がカフェの前に立っていて、「歩きながら話す」と言った。

「今日は教室じゃなくて、外の授業」

 駅前を歩いた。燈子が前、直人が後ろ。半歩差。

「まず、後方確認。振り返らずに後ろを見る方法」

 燈子がスマートフォンを取り出した。カメラを起動して、自撮りモードにした。画面を自分に向けたまま、腰の高さに持つ。

「このまま歩く。画面に映るのは自分の体と、その背後。自撮りのふりをして後方確認。十代なら不自然じゃないでしょう」

 直人はやってみた。スマートフォンを自撮りモードにして腰に構える。画面に自分の腹と、後方の道路が映る。

「もう一つ。ショーウィンドウのガラス。反射で後方が見える。立ち止まって商品を見ているふりをすれば、三秒は確認できる」

 靴屋の前で立ち止まった。ガラスに後方が映っている。人通り。自転車。バス。

「三つ目。信号待ち。横断歩道の向かい側に立っている人間を見るふりをして、実際には自分の隣と後ろを確認する。信号待ちは全員が立ち止まるから、周囲を見ても不自然にならない」

 信号で止まった。直人は向かいの歩道を見るふりをして、横の人間を確認した。サラリーマン。主婦。高校生。灰色パーカーの男はいなかった。

「次。スマホの扱い」

 燈子が歩きながら言った。

「あんたのスマートフォンは二台。メインと、Relay用。Relay用は自宅から持ち出さないこと。外ではメインだけ使いなさい。メインでRelayに接続しないで。絶対に」

「してません」

「してないのは知ってる。続き。メインのスマホで気をつけること。位置情報は常にオフ。Wi-Fiの自動接続もオフ。公共のフリーWi-Fiには絶対に繋がない。カフェのWi-Fiも駅のWi-Fiも駄目。自分のモバイルデータ通信だけ使え」

「それは、やってます」

「やってても言うわ。確認よ。——あと、写真。スマホで撮った写真にはExif情報が埋め込まれる。GPSの座標、撮影日時、端末のシリアル番号。写真をSNSにアップしなくても、LINEで送っただけでExifが渡る」

「写真は撮らないようにしてます」

「撮らなくていい。もし撮ったら、Exifを削除してから送ること。アプリを入れておきなさい」

 直人はメモを取りたかったが、スマートフォンにメモするのは燈子の教えに反する気がして、頭の中に記録した。

「最後。一番大事なこと」

 燈子が立ち止まった。駅前の小さな公園。ベンチ。座った。直人も座った。

「会わない勇気」

「会わない?」

「あんたは善意の人間だ。Relayの利用者が困っていたら助けたくなる。DV相談のときみたいに。でも、会いに行くな」

「会いに行くって」

「Relayの利用者に。直接。物理的に。どんなに困っていても、どんなに助けを求められても、管理者として直接会いに行かないこと。会った瞬間に、相手はあんたの顔を知る。顔を知った人間は、脅されたら話す。話した情報は、あんたの敵に渡る」

「でも」

「でも、じゃないの。会わないことが、あんたを守り、相手を守る。あんたが特定されたら、あんたに会った人間も芋づる式に特定される。あんたの善意が、相手を危険にさらすのよ」

 善意が危険になる。あの夜、管理者IDで直接返信してしまった失敗と同じ構造だ。

「会わないことが最善なんですか」

「最善かどうかは分からない。でも、今のあんたのレベルでは最安全だ。最善と最安全は違う。最善は犠牲を伴うことがある。最安全は——誰も傷つかない代わりに、誰も救えない。あんたはまだ、犠牲のコストを払える段階にいない」

 直人は黙った。

 公園のベンチに座っている。十月の夕方。風が冷たい。隣に燈子がいる。アイスコーヒーではなく、ホットのカフェラテを持っている。寒くなったから変えたのか。

「燈子さん」

「何」

「僕にできることって、本当にあるんですか」

「ある。あんたがRelayを設計した才能は本物よ。七万人の匿名ネットワークを一人で回していた事実は変わらない。問題は、その才能が——まだ現実の速度についていけていないこと」

「現実の速度」

「ネットの世界では、一秒で情報が届いて、一秒で対処できる。現実の世界では、人が歩いてきて、言葉を交わして、顔を見て、殴る。速度が違う。距離が違う。あんたは速い世界で育った人間だから、遅い世界のルールが分からない。それを教えてる」

 直人は立ち上がった。

「ありがとうございます」

「礼は要らない。請求書は後で送る」

 燈子は笑わなかった。本気で請求書を送ってくるのかもしれない。商売人だ。

 帰り道。後方確認をしながら歩いた。自撮りモード。ショーウィンドウ。信号待ち。

 尾行はなかった。

 帰宅した。「ただいま」。父親が珍しく早く帰ってきていた。リビングで妹と将棋をしている。妹が勝っている。

「お兄ちゃん、お父さん弱い」

「うるさいな。手加減してるんだ」

「嘘つけー」

 直人は笑った。普通に笑えた。

 自室に入って、日報を送った。

 『異常なし。授業ありがとうございました』

 返信。

 『よろしい。明日から、通学路を三パターン用意しなさい。毎日ランダムに変えること。パターンのない行動が、最良の防御よ』

 三パターン。

 直人は地図アプリを開いて、学校までの代替ルートを二つ探した。遠回りになるが、それぞれ別の道を通る。

 パターンのない行動。

 普通の高校生は、毎日同じ道で学校に通う。直人はもうその普通を手放した。