小説置き場

第1話「ログアウトできない放課後」

2,333文字 約5分

六時間目の世界史が終わった瞬間、佐伯隼人が机に突っ伏した。

「死ぬ」

「死なないだろ」

「いや、死ぬ。ローマ帝国の属州制度で人は死ぬ」

「試験範囲じゃないから安心しろ」

「マジ?」隼人が顔を上げた。目に光が戻っている。回復が早い。「直人、範囲どこ」

「十八世紀の市民革命から。プリントの三枚目に書いてある」

「プリント三枚目……」隼人がクリアファイルを漁る。「あった。お前さ、こういうの全部覚えてんの?」

「書いてあることを読んでるだけだよ」

「それが難しいんだって。文字は読めるけど頭に入んない。柔道の技のほうがよっぽど覚えやすい」

 隼人は立ち上がると伸びをした。百七十八センチ。柔道部のレギュラー。教室で伸びをすると天井が近い。

「帰り、コンビニ寄ってく? 新作のアイス出てた」

「ごめん、今日はちょっと用事ある」

「塾?」

「ううん。家の、ちょっとした手伝い」

「ふーん」隼人は深追いしなかった。そういうところがいい。聞かれたくなさそうな空気を、たぶん無意識に読んでいる。「じゃ、また明日」

 拳を軽くぶつけて、隼人は教室を出ていった。廊下で誰かに声をかけられて、すぐに笑い声が聞こえる。隼人のまわりにはいつも人がいる。

 奥谷直人。十七歳。高校二年。

 成績は学年十五位くらい。友達はいる。部活は入っていない。家庭は共働きで、父親はメーカー勤務、母親はパートの事務。妹が一人、中学一年。夕飯は母親が作る日と、父親がスーパーの惣菜を買ってくる日が交互にある。ごく普通の、どこにでもある家族。

 普通だ。

 教室を出て、靴を履き替えて、校門を抜ける。十月の風が少し冷たくなっている。銀杏の葉が歩道に散り始めていた。踏むと湿った音がする。

 駅に向かわず、商店街を通り抜ける。肉屋の前で煙が出ている。コロッケを揚げている匂い。隣のクリーニング屋のシャッターが半分降りている。パン屋は今日も混んでいる。

 自宅に着く。マンションの五階。エレベーターに乗って、鍵を開けて、靴を脱いで、「ただいま」と言う。返事はない。母親はまだパートだし、妹は塾だ。

 自分の部屋。六畳。机、ベッド、本棚。壁にはポスターの一枚も貼っていない。その代わり、机の上にはノートパソコンが一台と、外付けモニターが一台。引き出しの中に、SIMカードが三枚と、初期化済みのスマートフォンが二台。

 普通の高校生の部屋に見える。

 たぶん。

 制服を脱いで私服に着替えた。椅子に座って、ノートパソコンを開く。ブラウザを立ち上げる前に、スマートフォンの通知を確認する。メインの端末ではなく、引き出しの中の、もう一台のほう。

 通知が十四件。

 ダッシュボードを開く。VPNを通して、二段階のプロキシを経由して、暗号化されたチャットに入る。端末に紐づいたIDは、直人の名前とは何の関係もない。

 この画面の向こうに、七万人がいる。

 Relay。

 僕が中学二年のときに作った、匿名の相互扶助ネットワーク。最初は同級生が三人で始めた助け合いの掲示板だった。困っている人が匿名で依頼を出して、手伝える人が匿名で引き受ける。報酬はエスクローで預かって、完了したら渡す。名前は要らない。信用は証言で積み上げる。

 三年で七万人になった。

 依頼の内容も変わった。宿題の手伝いから、翻訳、調査代行、送迎、引っ越し、法律相談の仲介。DV被害者の緊急避難先を探す依頼。借金で追い込まれた人の逃げ道を確保する依頼。表の社会で助けを求められない人たちが、匿名のまま、匿名の誰かに助けられる。

 それが最初に作りたかったものだ。

 通知を処理する。エスクローの完了承認が三件。仲裁の申し立てが一件。新規参加者の信用ノードの確認が五件。システムの負荷報告が二件。あとは雑多な連絡。

 慣れた手つきで片づけていく。一つ一つは小さな作業だ。承認ボタンを押す。ログを確認する。仲裁は中立の仲裁人にアサインする。

 三十分で終わった。

 パソコンを閉じる。引き出しのスマートフォンを元の位置に戻す。

 台所に行って、冷蔵庫から麦茶を出す。グラスに注いで飲む。冷たい。窓の外で、近所の犬が吠えている。

 七万人。

 最初は三人だった。僕と、ネットで知り合った二人。その二人とも、今は顔を知らないままだ。三年間、一度も会っていない。全員が匿名。それがルールだ。

 七万人のネットワークを、一人の高校二年生が中核で回している。

 誰にも言っていない。隼人にも。親にも。先生にも。

 言えるわけがない。

 麦茶を飲み干して、グラスを洗った。それから教科書を開いた。明日は数学の小テストがある。範囲は二次関数の応用。十五分あれば復習できる。

 復習しながら、頭の隅で考えている。

 今日の仲裁案件。依頼者と受注者の間でトラブルが起きた。依頼者が「完了していない」と言い、受注者が「完了した」と言っている。エスクローの報酬が宙に浮いている。仲裁人の判断に委ねたが、こういう案件が最近増えている。ネットワークが大きくなればなるほど、揉め事は増える。

 七万人。

 多すぎるのかもしれない。

 でも、減らす方法がない。誰かを追い出す仕組みは、作らなかった。作りたくなかったから。入りたい人は入れる。出たい人は出られる。それだけにした。

 それが正しいと思っていた。

 玄関のドアが開く音がした。

「ただいまー」

 妹の声。塾から帰ってきた。

「おかえり」

「お兄ちゃん、夕飯まだ?」

「まだ。お母さん六時くらいに帰ってくると思うけど」

「おなかすいたー」

「冷蔵庫にプリンある」

「やった」

 妹がリビングに走っていく。冷蔵庫を開ける音。プリンの蓋を剥がす音。テレビがつく。

 普通の夕方だ。

 直人は数学の問題を解きながら、引き出しの中のスマートフォンのことを考えないようにした。考えないようにするのは、もう慣れた。

 普通でいること。

 それが今の、僕の仕事だ。