六時間目の世界史が終わった瞬間、佐伯隼人が机に突っ伏した。
「死ぬ」
「死なないだろ」
「いや、死ぬ。ローマ帝国の属州制度で人は死ぬ」
「試験範囲じゃないから安心しろ」
「マジ?」隼人が顔を上げた。目に光が戻っている。回復が早い。「直人、範囲どこ」
「十八世紀の市民革命から。プリントの三枚目に書いてある」
「プリント三枚目……」隼人がクリアファイルを漁る。「あった。お前さ、こういうの全部覚えてんの?」
「書いてあることを読んでるだけだよ」
「それが難しいんだって。文字は読めるけど頭に入んない。柔道の技のほうがよっぽど覚えやすい」
隼人は立ち上がると伸びをした。百七十八センチ。柔道部のレギュラー。教室で伸びをすると天井が近い。
「帰り、コンビニ寄ってく? 新作のアイス出てた」
「ごめん、今日はちょっと用事ある」
「塾?」
「ううん。家の、ちょっとした手伝い」
「ふーん」隼人は深追いしなかった。そういうところがいい。聞かれたくなさそうな空気を、たぶん無意識に読んでいる。「じゃ、また明日」
拳を軽くぶつけて、隼人は教室を出ていった。廊下で誰かに声をかけられて、すぐに笑い声が聞こえる。隼人のまわりにはいつも人がいる。
奥谷直人。十七歳。高校二年。
成績は学年十五位くらい。友達はいる。部活は入っていない。家庭は共働きで、父親はメーカー勤務、母親はパートの事務。妹が一人、中学一年。夕飯は母親が作る日と、父親がスーパーの惣菜を買ってくる日が交互にある。ごく普通の、どこにでもある家族。
普通だ。
教室を出て、靴を履き替えて、校門を抜ける。十月の風が少し冷たくなっている。銀杏の葉が歩道に散り始めていた。踏むと湿った音がする。
駅に向かわず、商店街を通り抜ける。肉屋の前で煙が出ている。コロッケを揚げている匂い。隣のクリーニング屋のシャッターが半分降りている。パン屋は今日も混んでいる。
自宅に着く。マンションの五階。エレベーターに乗って、鍵を開けて、靴を脱いで、「ただいま」と言う。返事はない。母親はまだパートだし、妹は塾だ。
自分の部屋。六畳。机、ベッド、本棚。壁にはポスターの一枚も貼っていない。その代わり、机の上にはノートパソコンが一台と、外付けモニターが一台。引き出しの中に、SIMカードが三枚と、初期化済みのスマートフォンが二台。
普通の高校生の部屋に見える。
たぶん。
制服を脱いで私服に着替えた。椅子に座って、ノートパソコンを開く。ブラウザを立ち上げる前に、スマートフォンの通知を確認する。メインの端末ではなく、引き出しの中の、もう一台のほう。
通知が十四件。
ダッシュボードを開く。VPNを通して、二段階のプロキシを経由して、暗号化されたチャットに入る。端末に紐づいたIDは、直人の名前とは何の関係もない。
この画面の向こうに、七万人がいる。
Relay。
僕が中学二年のときに作った、匿名の相互扶助ネットワーク。最初は同級生が三人で始めた助け合いの掲示板だった。困っている人が匿名で依頼を出して、手伝える人が匿名で引き受ける。報酬はエスクローで預かって、完了したら渡す。名前は要らない。信用は証言で積み上げる。
三年で七万人になった。
依頼の内容も変わった。宿題の手伝いから、翻訳、調査代行、送迎、引っ越し、法律相談の仲介。DV被害者の緊急避難先を探す依頼。借金で追い込まれた人の逃げ道を確保する依頼。表の社会で助けを求められない人たちが、匿名のまま、匿名の誰かに助けられる。
それが最初に作りたかったものだ。
通知を処理する。エスクローの完了承認が三件。仲裁の申し立てが一件。新規参加者の信用ノードの確認が五件。システムの負荷報告が二件。あとは雑多な連絡。
慣れた手つきで片づけていく。一つ一つは小さな作業だ。承認ボタンを押す。ログを確認する。仲裁は中立の仲裁人にアサインする。
三十分で終わった。
パソコンを閉じる。引き出しのスマートフォンを元の位置に戻す。
台所に行って、冷蔵庫から麦茶を出す。グラスに注いで飲む。冷たい。窓の外で、近所の犬が吠えている。
七万人。
最初は三人だった。僕と、ネットで知り合った二人。その二人とも、今は顔を知らないままだ。三年間、一度も会っていない。全員が匿名。それがルールだ。
七万人のネットワークを、一人の高校二年生が中核で回している。
誰にも言っていない。隼人にも。親にも。先生にも。
言えるわけがない。
麦茶を飲み干して、グラスを洗った。それから教科書を開いた。明日は数学の小テストがある。範囲は二次関数の応用。十五分あれば復習できる。
復習しながら、頭の隅で考えている。
今日の仲裁案件。依頼者と受注者の間でトラブルが起きた。依頼者が「完了していない」と言い、受注者が「完了した」と言っている。エスクローの報酬が宙に浮いている。仲裁人の判断に委ねたが、こういう案件が最近増えている。ネットワークが大きくなればなるほど、揉め事は増える。
七万人。
多すぎるのかもしれない。
でも、減らす方法がない。誰かを追い出す仕組みは、作らなかった。作りたくなかったから。入りたい人は入れる。出たい人は出られる。それだけにした。
それが正しいと思っていた。
玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
妹の声。塾から帰ってきた。
「おかえり」
「お兄ちゃん、夕飯まだ?」
「まだ。お母さん六時くらいに帰ってくると思うけど」
「おなかすいたー」
「冷蔵庫にプリンある」
「やった」
妹がリビングに走っていく。冷蔵庫を開ける音。プリンの蓋を剥がす音。テレビがつく。
普通の夕方だ。
直人は数学の問題を解きながら、引き出しの中のスマートフォンのことを考えないようにした。考えないようにするのは、もう慣れた。
普通でいること。
それが今の、僕の仕事だ。