小説置き場

第9話「跳弾の周波数」

1,707文字 約4分

日曜日。ブルー・ノートの裏口。

 飛羽が路地に立っていた。コートを脱いで、シャツの袖を捲っている。手にゴムボール。黒い、テニスボールサイズのやつ。

「来たか。今日は座学じゃない。実技だ」

「実技?」

「お前に投げ方を教える」

 透は困惑した。カナリアの仕事は耳鳴りの報告だ。投げるのは飛羽の仕事のはずだ。

「俺がいつも現場にいるとは限らない。お前一人で対処しなきゃいけない場面が来る。そのとき、できることは三つ。逃げる、報告する、文脈を壊す。三番目の手段として、これを覚えろ」

 飛羽はゴムボールを路地の壁に投げた。ガンッ。跳ね返って反対側の壁に当たり、地面に落ちて転がった。

「狙うのは人間じゃない。壁だ。床だ。障害物だ。人間に直接当てたら暴行罪になる。ゴムボールを壁に投げるのは、ただの物理現象。法律に触れない」

「でも、それで何が」

「音と動き。予想外の方向から予想外のタイミングで音と動きが入る。スマホの画面を見ている人間は、視界の外から来る物理的刺激に弱い。目が画面から離れる。離れた瞬間に、同期が一瞬途切れる」

 飛羽はボールを拾って、もう一度投げた。今度は壁の角を狙った。ボールが角に当たり、予測しにくい角度で跳ね返った。

「角に当てると軌道がランダムになる。ランダムが重要だ。AIは直線を予測できるが、壁の角で反射した後の軌道は計算が合わない。表面の凹凸、ボールの回転、風。変数が多すぎる」

「AIが予測できないのは——偶然」

「そう。偶然。物理世界の偶然。デジタルの情報空間には偶然がない。全てが記録され、計算され、予測される。だが物理空間には壁の凹凸がある。ゴムの弾性がある。風がある。それが俺たちの武器だ」

 透はボールを受け取った。

 投げた。壁に当たった。弱い。跳ね返りも小さい。

「もっと体重を乗せろ。腕じゃなく、腰で投げる」

 もう一度。今度は少しマシだった。ガン、と壁に当たって、反対側に跳ねた。

「音は出た。だが狙いが甘い。角を狙え。角に当たれば音が大きくなるし、軌道が変わる。予測不能度が上がる」

 十回投げた。二十回。三十回。

 腕が痛い。透は体力がない。飛羽は見かねて休憩を入れた。

 ブルー・ノートの中に入った。店主がコーヒーを出した。透はミルクと砂糖。飛羽はブラック。

「飛羽さん。一つ聞いていいですか」

「何だ」

「昨日の路上ミュージシャンの件。あのとき、ゴムボールじゃなくて音楽を使いましたよね。ギターをリクエストした」

「ああ」

「あれは、なぜ音楽だったんですか」

 飛羽はコーヒーを一口飲んだ。三秒考えた。

「怒りの同期は、ゴムボールで崩せる。だが崩した後が問題だ。同期が解けた人間は、混乱する。『何やってたんだ俺は』と思う。その混乱が再び怒りに変わることがある。目が覚めた瞬間に、恥ずかしさで余計に攻撃的になる」

「だから」

「音楽は、同期を崩した後の着地点を用意する。怒りから目覚めた人間が、次に何を感じるか。ゴムボールだと『なんだ今のは』。音楽だと『ああ、音楽だ』。感情の着地先が違う」

「着地先」

「文脈の破壊は壊すだけじゃない。壊した後に何を置くかで、結果が変わる。空白を残せば混乱。音楽を置けば少なくとも暴力にはならない」

 透はそれを頭の中で整理した。

 ゴムボール=同期を壊す。物理的。即効性がある。だが着地先は「混乱」。  音楽=同期を壊しつつ、着地先に「別の感情」を用意する。だが準備が必要。現場にミュージシャンがいないと使えない。

「じゃあ、ゴムボールと音楽は、場面によって使い分ける」

「そうだ。道具は多い方がいい。ゴムボール、音楽、光、匂い、温度。物理的に五感に入力できるものは全て武器になる。AIが制御できるのはデジタル空間だけだ。物理空間の五感は人間のものだ」

 飛羽の声に、珍しく熱がこもっていた。

 この人は——物理法則を愛している。

 デジタルが全てを制御する世界の中で、ゴムボール一つで現実を守ろうとしている。その不器用さと頑固さが、透には少しだけ眩しかった。

「もう三十回投げろ」

「腕が……」

「腕は回復する。技術は残る」

 路地に出た。ゴムボールを握った。

 壁の角を狙った。投げた。ガン。跳ね返りが前より大きくなった。

 少しずつ、上手くなっている。