土曜日の午後。飛羽から呼ばれた場所は、槻ノ森駅前のロータリーだった。
着くと、人だかりができていた。
ロータリーの端にある広場、バスのUターンに使われるスペースに、ギターケースを開いた若い男が座っていた。路上ミュージシャン。二十代前半。ビーニー帽にダウンジャケット。ギターを膝に置いたまま、弾いていない。
顔が青白かった。
人だかりは二十人くらいだった。全員がスマートフォンを構えている。半数が動画を撮影している。残りはSNSの画面を見ながら、何かを確認している。
口々に言っている。
「こいつだよ。写真と同じ顔」
「マジで? 盗撮してたやつ?」
「いやいや、まだ確定じゃないって」
「確定だろ。名前も場所も一致してんじゃん」
透の耳が鳴った。
キーン、ではない。ザ、ザ、ザ、という断続的なノイズ。パルス状。教室の同調圧力とも、深夜の情報災害とも違う。これは怒りの共振。
飛羽が透の隣にいた。いつの間にか立っていた。コートの襟を立てて、人だかりを見ている。
「飛羽さん。あの人」
「路上ミュージシャン。名前は知らない。週末にここで弾いてた。今朝、SNSで『駅前で盗撮してた男の特徴』という投稿が拡散した。ビーニー帽、ギター、ダウンジャケット。たまたま特徴が一致しただけだ」
「じゃあ、あの人は」
「無関係。だが投稿を見た人間が『こいつだ』と決めつけて、現場に集まってきた。デマの物理化。SNSの情報が、路上の暴力に変わる瞬間だ」
路上ミュージシャンは何も言っていなかった。ギターを抱えたまま、座ったまま、人だかりを見上げている。怯えている。でも逃げない。逃げたら「やっぱり犯人だ」と思われることを、たぶん知っている。
人だかりの中で、一人の男が声を上げた。三十代。仕事帰りらしいスーツ姿。
「おい、警察呼んだほうがいいんじゃないか」
「もう通報したよ」
「しかし、証拠はあんのか? 写真の特徴が似てるだけだろ」
「似てるっていうか、完全に一致してるだろ」
完全に一致。ビーニー帽、ギター、ダウンジャケット。三つの特徴。路上ミュージシャンなら全部当てはまる。
透の耳鳴りが強くなった。パルスの間隔が狭まっている。怒りの密度が上がっている。
「飛羽さん。止めないんですか」
「止めない」
「でも、あの人、何もしてないのに」
「見ろ」
飛羽の声は硬かった。怒りではない。教える声。
「これが情報災害の末端だ。AIが直接やったわけじゃない。投稿を拡散させたアルゴリズムがある。特定のエリアにプッシュ通知を集中させた仕組みがある。でも、最終的に足を動かしたのは、一人一人の人間だ。ここに来て、スマホを構えて、『こいつだ』と言ったのは、人間の判断だ」
「でも、その判断を誘導したのは」
「そう。誘導はあった。だが、誘導されたからといって責任が消えるわけじゃない。お前に見せたかったのはここだ。AIの問題じゃなく、AIと人間の境界の問題。どこまでが機械の仕業で、どこからが人間の選択か。その線が見えないことが、情報災害の本質だ」
人だかりの中で、スーツの男が路上ミュージシャンに話しかけた。
「あんた、身分証見せられる? 疑い晴らしたいなら」
「なんで俺が身分証見せなきゃいけないんですか」
路上ミュージシャンの声が震えていた。だが正しいことを言っていた。公共の場で演奏しているだけの人間が、通行人に身分証を見せる義務はない。
「いいから見せろよ。やましいことないなら」
「やましいことないから見せないんですよ」
空気が変わった。怒りの質が変わった。正義感が、苛立ちに変質していく。
耳鳴りがさらに強くなった。透は頭を押さえた。
「飛羽さん」
「分かってる。ここからは俺の仕事だ。お前は下がれ」
飛羽がポケットからゴムボールを出した。だが——投げなかった。
代わりに、人だかりの中に歩いていった。
「すみません。通りますよ」
低い声。威圧ではない。ただの通行人の声。飛羽は人だかりの中を横切り、路上ミュージシャンの前に立った。
そして——ギターケースの前にしゃがんだ。
「いい天気だね。一曲聞かせてもらえる?」
ミュージシャンが飛羽を見上げた。混乱している。
「……え?」
「ギター。弾いてよ。せっかくここにいるんだから」
人だかりが少しだけ動揺した。「何だこいつ」「空気読めよ」。
飛羽は動かなかった。ミュージシャンの前にしゃがんだまま、穏やかな顔で待っている。
ミュージシャンの手が、ギターの弦に触れた。震えていた。
一音。
C。開放弦のC。指が弦を弾いた。
音が広がった。十月の午後の空気の中に、ギターの音が。
二音目。三音目。
弾き始めた。何の曲か分からない。コード進行は単純。でも、音がある。生の音が。スマホのスピーカーではなく、目の前の人間の指から出る音が。
人だかりの何人かが、スマホを下ろした。
耳鳴りが下がった。
透は二十メートル離れた場所から見ていた。飛羽はゴムボールを使わなかった。代わりに音楽を使った。予想外の文脈。AIが予測できない人間の行動。盗撮犯だと詰め寄られている場にリクエストするナンセンス。
人だかりが解け始めた。一人、また一人。スマホをポケットに戻して、歩いていく。
五分後、残ったのはミュージシャンと飛羽と、まだ撮影している二人だけだった。
飛羽が立ち上がった。
「いい演奏だった。ありがとう」
「あの、あんた、誰」
「通りすがり」
飛羽が歩いてきた。透の隣に戻った。
顔色は悪くなかった。今回は直接触れていない。コストは低い。
「今のは、ゴムボールじゃなく」
「音楽。予想外の物理的刺激のバリエーションだ。怒りで同期している群衆に、怒りとは無関係の刺激を入れる。ゴムボールは視覚と聴覚を突く。音楽は感情を突く。効くときと効かないときがある。今回は効いた」
「効かないときは」
「殴られる」
飛羽はそう言って、歩き始めた。ブルー・ノートに向かって。
透はついていった。耳鳴りは消えていた。ギターの残響だけが、耳の奥に残っていた。