小説置き場

第8話「反響するエコーチェンバー」

2,398文字 約5分

土曜日の午後。飛羽から呼ばれた場所は、槻ノ森駅前のロータリーだった。

 着くと、人だかりができていた。

 ロータリーの端にある広場、バスのUターンに使われるスペースに、ギターケースを開いた若い男が座っていた。路上ミュージシャン。二十代前半。ビーニー帽にダウンジャケット。ギターを膝に置いたまま、弾いていない。

 顔が青白かった。

 人だかりは二十人くらいだった。全員がスマートフォンを構えている。半数が動画を撮影している。残りはSNSの画面を見ながら、何かを確認している。

 口々に言っている。

「こいつだよ。写真と同じ顔」

「マジで? 盗撮してたやつ?」

「いやいや、まだ確定じゃないって」

「確定だろ。名前も場所も一致してんじゃん」

 透の耳が鳴った。

 キーン、ではない。ザ、ザ、ザ、という断続的なノイズ。パルス状。教室の同調圧力とも、深夜の情報災害とも違う。これは怒りの共振。

 飛羽が透の隣にいた。いつの間にか立っていた。コートの襟を立てて、人だかりを見ている。

「飛羽さん。あの人」

「路上ミュージシャン。名前は知らない。週末にここで弾いてた。今朝、SNSで『駅前で盗撮してた男の特徴』という投稿が拡散した。ビーニー帽、ギター、ダウンジャケット。たまたま特徴が一致しただけだ」

「じゃあ、あの人は」

「無関係。だが投稿を見た人間が『こいつだ』と決めつけて、現場に集まってきた。デマの物理化。SNSの情報が、路上の暴力に変わる瞬間だ」

 路上ミュージシャンは何も言っていなかった。ギターを抱えたまま、座ったまま、人だかりを見上げている。怯えている。でも逃げない。逃げたら「やっぱり犯人だ」と思われることを、たぶん知っている。

 人だかりの中で、一人の男が声を上げた。三十代。仕事帰りらしいスーツ姿。

「おい、警察呼んだほうがいいんじゃないか」

「もう通報したよ」

「しかし、証拠はあんのか? 写真の特徴が似てるだけだろ」

「似てるっていうか、完全に一致してるだろ」

 完全に一致。ビーニー帽、ギター、ダウンジャケット。三つの特徴。路上ミュージシャンなら全部当てはまる。

 透の耳鳴りが強くなった。パルスの間隔が狭まっている。怒りの密度が上がっている。

「飛羽さん。止めないんですか」

「止めない」

「でも、あの人、何もしてないのに」

「見ろ」

 飛羽の声は硬かった。怒りではない。教える声。

「これが情報災害の末端だ。AIが直接やったわけじゃない。投稿を拡散させたアルゴリズムがある。特定のエリアにプッシュ通知を集中させた仕組みがある。でも、最終的に足を動かしたのは、一人一人の人間だ。ここに来て、スマホを構えて、『こいつだ』と言ったのは、人間の判断だ」

「でも、その判断を誘導したのは」

「そう。誘導はあった。だが、誘導されたからといって責任が消えるわけじゃない。お前に見せたかったのはここだ。AIの問題じゃなく、AIと人間の境界の問題。どこまでが機械の仕業で、どこからが人間の選択か。その線が見えないことが、情報災害の本質だ」

 人だかりの中で、スーツの男が路上ミュージシャンに話しかけた。

「あんた、身分証見せられる? 疑い晴らしたいなら」

「なんで俺が身分証見せなきゃいけないんですか」

 路上ミュージシャンの声が震えていた。だが正しいことを言っていた。公共の場で演奏しているだけの人間が、通行人に身分証を見せる義務はない。

「いいから見せろよ。やましいことないなら」

「やましいことないから見せないんですよ」

 空気が変わった。怒りの質が変わった。正義感が、苛立ちに変質していく。

 耳鳴りがさらに強くなった。透は頭を押さえた。

「飛羽さん」

「分かってる。ここからは俺の仕事だ。お前は下がれ」

 飛羽がポケットからゴムボールを出した。だが——投げなかった。

 代わりに、人だかりの中に歩いていった。

「すみません。通りますよ」

 低い声。威圧ではない。ただの通行人の声。飛羽は人だかりの中を横切り、路上ミュージシャンの前に立った。

 そして——ギターケースの前にしゃがんだ。

「いい天気だね。一曲聞かせてもらえる?」

 ミュージシャンが飛羽を見上げた。混乱している。

「……え?」

「ギター。弾いてよ。せっかくここにいるんだから」

 人だかりが少しだけ動揺した。「何だこいつ」「空気読めよ」。

 飛羽は動かなかった。ミュージシャンの前にしゃがんだまま、穏やかな顔で待っている。

 ミュージシャンの手が、ギターの弦に触れた。震えていた。

 一音。

 C。開放弦のC。指が弦を弾いた。

 音が広がった。十月の午後の空気の中に、ギターの音が。

 二音目。三音目。

 弾き始めた。何の曲か分からない。コード進行は単純。でも、音がある。生の音が。スマホのスピーカーではなく、目の前の人間の指から出る音が。

 人だかりの何人かが、スマホを下ろした。

 耳鳴りが下がった。

 透は二十メートル離れた場所から見ていた。飛羽はゴムボールを使わなかった。代わりに音楽を使った。予想外の文脈。AIが予測できない人間の行動。盗撮犯だと詰め寄られている場にリクエストするナンセンス。

 人だかりが解け始めた。一人、また一人。スマホをポケットに戻して、歩いていく。

 五分後、残ったのはミュージシャンと飛羽と、まだ撮影している二人だけだった。

 飛羽が立ち上がった。

「いい演奏だった。ありがとう」

「あの、あんた、誰」

「通りすがり」

 飛羽が歩いてきた。透の隣に戻った。

 顔色は悪くなかった。今回は直接触れていない。コストは低い。

「今のは、ゴムボールじゃなく」

「音楽。予想外の物理的刺激のバリエーションだ。怒りで同期している群衆に、怒りとは無関係の刺激を入れる。ゴムボールは視覚と聴覚を突く。音楽は感情を突く。効くときと効かないときがある。今回は効いた」

「効かないときは」

「殴られる」

 飛羽はそう言って、歩き始めた。ブルー・ノートに向かって。

 透はついていった。耳鳴りは消えていた。ギターの残響だけが、耳の奥に残っていた。