月曜日から、帰り道を変えた。
学校を出て、いつもなら住宅街を抜けて最短ルートで帰る。十二分。それを、駅前のロータリーを通って商店街を横切るルートに変えた。二十分。八分の遠回り。
カナリアの仕事だ。
月曜日。駅前。午後四時。
ロータリーにタクシーが三台。バス停にベビーカーの母親。コンビニの前で缶コーヒーを飲んでいるサラリーマン。高校生が五人くらい固まって笑っている。同じ学校の制服。知らない顔。
耳鳴りはない。
商店街に入る。パン屋が混んでいる。花屋の前にバケツが並んでいて、菊の匂いがする。八百屋のおじさんが段ボールを潰している。「いらっしゃい」と声がかかったが、透に向かってではなかった。
耳鳴りはない。
自販機の前で立ち止まった。コンプレッサーの低い唸り。振動。これは機械の音だ。耳鳴りではない。区別はつくようになってきた。機械の音は外から来る。耳鳴りは中から来る。
スマートフォンを出した。暗号化メッセンジャーに記録を打つ。
『月曜 16:05 駅前ロータリー〜商店街 異常なし』
火曜日。同じルート。同じ時間帯。
パン屋の前に列ができている。火曜日は食パンの焼き上がりが四時らしい。八百屋が特売のチラシを貼り替えている。花屋の菊が減っている。
耳鳴りはない。
水曜日。雨。
傘を差して歩く。路面が濡れている。水たまりに街灯が映っている。人が少ない。雨の日は商店街の人通りが半分になる。
耳鳴りが——鳴った。
微かだ。右の耳。教室で感じるのと同じくらいの強度。蚊の羽音。
透は足を止めた。場所を確認する。商店街の中ほど。クリーニング屋と文房具店の間。時刻は四時十二分。
周囲を見る。クリーニング屋のシャッターは半分閉まっている。文房具店の前に、中学生が二人、スマホを見ている。二人とも同じ方向を向いているが、これは隣同士で同じ画面を覗いているだけだ。普通の行動。
耳鳴りはもう消えていた。
三秒。三秒だけ鳴って、消えた。
『水曜 16:12 商店街中央(クリーニング屋前)右耳 極弱 3秒で消失』
ハルカから返信。
『記録ありがとう。その位置、先週の火曜にもエンリングのプッシュ通知の集中配信があったエリアと一致。ピンポイントではないけど誤差100m以内。耳鳴り消失は一過性のバースト。大きな災害の前兆ではなく、アルゴリズムの「テスト信号」に近い可能性』
テスト信号。
AIが特定のエリアに短い刺激を送って、反応を計測している。人間が気づかないレベルの。でも、透の耳には届くレベルの。
木曜日。晴れ。
同じルート。同じ時間帯。耳鳴りはなかった。
金曜日。曇り。
耳鳴りはなかった。
五日間の記録。異常は水曜の一回のみ。三秒。極弱。右耳。
データとしては薄い。だが五日間、毎日同じ道を歩いて、同じ時間帯の同じ場所の空気を体で感じたことには、意味があった。
商店街には音がある。パン屋の焼き上がりの匂い(これは音じゃないが、空気の変化として耳が拾う)。八百屋の声。自転車のブレーキ。自販機のコンプレッサー。雨の日の水の音。
これが普通の音だ。
普通の音が分かっていないと、異常な音は拾えない。飛羽が「普通でいることが条件だ」と言った意味が、五日間歩いてみて分かった。
金曜の夜。
夕飯はカレーだった。母親が作った。ルーは甘口。妹が辛口にしてほしいと文句を言って、母親が「辛口は来年から」と返して、妹が「来年って言ったの去年もだよ」と言って、三人で笑った。父親は出張で不在。
居間のテレビがついている。ニュース。天気予報。明日は晴れ。
「透、最近帰り遅くない?」
母親がカレーの鍋を洗いながら言った。
「ちょっと遠回りして帰ってる。運動不足だから」
「あら、いいことじゃない。でも暗くなる前に帰ってきてね」
「うん」
嘘はついていない。遠回りしているのは本当だ。理由が「カナリアの日常観測」であることを除けば。
部屋に戻った。ベッドに座った。天井を見た。白い天井。もう何も考えたくない。自動販売機にすら、休業日がある。
五日間の記録を見返した。月曜から金曜。異常一回。商店街の空気は穏やかで、人々は普通に買い物をして、普通に帰っていった。
この普通が守りたいものなんだと、少しだけ思った。
飛羽が守っているのは、人間が自分の足で立っている状態だ。情報災害に同期させられず、自分の判断で動画を見て、自分のタイミングで笑って、自分の足で家に帰る。
カレーの味を思い出した。甘口。来年も甘口かもしれない。それでいい。
スマートフォンに通知が来た。飛羽から。
『明日の夜、ブルー・ノートに来い。動きがある』
透は返信した。
『分かりました』
明日の夜は——普通じゃなくなるかもしれない。
でも今夜は、カレーの味がする。それだけで十分だった。