翌日の昼休み、透は屋上で弁当を食べながら考えていた。
昨夜のアパート。七人。三時間のライブ配信。使い捨てアカウント。飛羽が直接触れて鎮圧した後、壁にもたれて顔色を失っていた姿。
あれがコストだ。
物理法則だけで戦うということは、代償も物理的に来る。飛羽の体は、毎回少しずつ削れている。
弁当の卵焼きを箸でつまんだ。冷たいが、味はする。帰りたい。ベッドで寝たい。昨夜から味覚が少し鈍い気がする。耳鳴りがきつかった影響かもしれない。
放課後、ブルー・ノートに行った。
ハルカが先にいた。カウンターにノートパソコンを三台並べている。三台。前回は一台だった。
「増えた?」
「借りてきた。APIのパターン分析、処理量がえぐくて」
ハルカの目の下にクマがあった。寝ていないのかもしれない。昼はエンリングで働いて、夜はここでログを解析している。二重生活。透もそうだが、ハルカの方が遥かにハードだ。
飛羽はカウンターの端にいた。今日は本を読んでいない。何もせず、コーヒーを前に座っている。顔色は昨夜より良い。
「結果が出た」ハルカが言った。画面を回転させて、透と飛羽に見せた。
グラフだった。縦軸が「視聴者数」、横軸が「時間」。波形がいくつも重なっている。
「昨夜のライブ配信と、過去二ヶ月間にエンリングで発生した不審なバズパターンを比較した。APIの呼び出しタイミング、プッシュ通知の発火条件、レコメンドアルゴリズムへの介入痕跡。結論から言うと」
ハルカは画面を指でなぞった。
「偶発じゃない。誰かが意図的にやってる」
「意図的に?」
「エンリングのレコメンドエンジンに、外部からパラメータを注入してる。本来のアルゴリズムだと拡散しないはずのコンテンツが、特定のエリア、特定の時間帯に集中的にプッシュされてる。しかも毎回、パラメータの注入方法が微妙に変わってる。学習してる。前回の結果を見て、次回の注入を調整してる」
飛羽が口を開いた。
「中の人間か」
「たぶん。エンリングのレコメンドエンジンのパラメータにアクセスできるのは、社内でも限られた人間だけ。外部からのハッキングじゃない。内部犯行」
透は話を整理しようとした。
「つまり、エンリングの中に、わざと情報災害を起こしている人間がいるってことですか」
「起こしている、というか、テストしてる感じ。昨夜のアパートの件も、規模としては小さい。七人。街全体じゃない。特定のエリアで、小さな実験を繰り返して、データを集めてる」
「何のために」
ハルカと飛羽が同時に黙った。
レコードが切り替わった。店主がB面にひっくり返す。サックスの音がゆっくり立ち上がる。
「それはまだ分からない」ハルカが言った。「でも、パターンの間隔が狭まってる。最初は二週間に一回だったのが、先月から一週間に一回。昨夜で三日ぶり。加速してる」
「加速してるなら、次はいつ」
「明日か明後日。遅くても今週中」
飛羽がコーヒーカップを置いた。
「場所は絞れるか」
「完全には無理。でも、過去のパターンから、槻ノ森市内。駅前から旧市街の範囲。前回と重なるエリアが高い。同じ場所でデータを取りたいはずだから」
透の耳の奥で、微かにざら、と鳴った。ブルー・ノートの中では鳴らないはずの音。予兆ではなく、記憶だ。昨夜の耳鳴りの残響が、まだ体に残っている。
「透」飛羽が言った。「明日から、学校の帰りに駅前を歩いてくれ。遠回りでいい。耳鳴りがしたら報告。場所と時間を」
「分かりました」
「ただし、昨夜みたいに現場に近づくのは禁止。耳鳴りがしたら、場所を報告して離れろ。鎮圧は俺がやる」
「でも、飛羽さんの体が」
「俺の体は俺が管理する」
飛羽の声は硬かった。それ以上言うなという声だ。
ハルカが画面を閉じた。
「もう一つ。パラメータを注入してる人間のアカウント権限を特定できたら、そいつを直接止められる。エンリングの内部システムを使って、権限を剥奪する。私の昼の仕事の範囲で、ぎりぎりできるかもしれない」
「バレたら」
「クビになる」ハルカはあっさり言った。「まあ、派遣だし。次の仕事探せばいいし」
透はハルカの顔を見た。軽い口調だが、目は笑っていなかった。
飛羽は体を削って戦う。ハルカは職を賭けて戦う。透は——耳鳴りに耐えるだけ。
「俺にもっとできることはないですか」
「ある」飛羽が言った。「普通に学校に行って、普通に帰ってくること。カナリアが日常を失ったら、何が日常で何が異常か分からなくなる。お前の耳が正しく鳴るためには、お前が普通でいることが条件だ」
普通でいること。
それが、透にできる最大の仕事だった。
ブルー・ノートを出た。夜の路地。猫が塀の上にいた。三毛。透を見て、ゆっくり尻尾を揺らした。
耳鳴りはない。
明日から、少しだけ遠回りして帰ろう。駅前を通って。耳を澄ませて。
普通の高校生のふりをしながら、街の音を聴く。
それが——炭鉱のカナリアの仕事だ。