小説置き場

第5話「減衰と沈黙」

2,170文字 約5分

古いアパートの一階。窓から漏れる青白い光は、テレビの光ではなかった。

 飛羽がアパートの入口に立った。透とハルカは十メートル後方。飛羽の指示で離れている。

「ハルカ。中の状況」

 ハルカがノートパソコンの画面を見ている。指がトラックパッドを走る。

「Wi-Fiのアクセスポイントが一つ。接続デバイスが七台。一部屋に七人。全員のスマホが同一のストリーミングURLに接続中。配信元はエンリングのライブ配信機能。配信者IDは使い捨てアカウント。三時間前に作成、フォロワーゼロ、でも視聴者がこのエリアだけで四十人超えてる」

「四十人?」

「この部屋の七人は、その四十人の中核。一番長く視聴してる。三時間ぶっ通し。たぶん最初から」

 透の耳の奥で、ジリジリという重い振動が続いていた。さっきより強い。アパートに近づくほど強くなる。

「透。強さは」

「……さっきの三倍くらい。頭の奥が重い。低い音」

「低い、か」飛羽は呟いた。「低いのは根が深い。表面的なバズじゃなく、感情の深い層に刺さってる。怒りか、恐怖か、正義感か。どれかに共鳴してる」

 飛羽はポケットからゴムボールを二つ出した。それと小さなBluetoothスピーカー。手のひらサイズ。

「手順を説明する。一回しか言わないから聞け」

 透は頷いた。

「まず、ハルカがアクセスポイントに干渉して、ストリーミングのバッファリングを発生させる。映像が三秒止まる。その三秒で、俺がスピーカーから不協和音を流す。予測できない物理的な聴覚刺激。同時にゴムボールを窓に投げる。視覚と聴覚の両方に予想外の入力を入れて、同期を崩す」

「それで全員起きる?」

「起きない。七人のうち、三人か四人。残りは深い。深い奴らには」

 飛羽は間を置いた。

「直接会いに行く。ドアを開けて、目を見て、名前を呼ぶ。名前が分からないなら、肩を叩く。物理的な接触が、最後の手段だ」

「危なくないですか。七人の中に入って」

「危ない。だから、残りの三人が起きた後にやる。起きた人間は味方になる。『何やってたんだ俺は』と思うから。その空気が、残りの深い奴らを引き戻す」

 論理的だ。だが、三秒のバッファリング、不協和音、ゴムボール、肩を叩く。全部、物理。全部、アナログ。AIが予測できないのは、こういう原始的な介入だから。

「ハルカ、準備は」

「OK。バッファリング、三秒後に入れる。カウントして」

「透。俺が中に入ったら、お前は外にいろ。耳鳴りの変化だけ教えてくれ。強くなったら『上がった』、弱くなったら『下がった』。それだけでいい」

「分かりました」

「行くぞ。ハルカ、三——二——一」

 窓の中の青白い光が、ぷつりと途切れた。バッファリング。映像が止まった。

 飛羽がスピーカーのスイッチを入れた。甲高い不協和音が路地に響いた。ギャッ、と猫が叫ぶような音。耳障りで、予測不能で、意味のない音。

 同時に、ゴムボールが窓に当たった。ガンッ。ガラスが震える。

 アパートの中から声が聞こえた。「何だ」「うるさ」「え、何してた俺」。

「下がった」

 透が叫んだ。耳鳴りが一気に半分に落ちた。中の人間が起きている。同期が崩れている。

 飛羽がドアを開けて中に入った。

 透は外にいた。路地に立って、耳鳴りの変化を感じている。

 三十秒。一分。

 耳鳴りがさらに弱くなる。

「下がった。もっと下がった」

 中から飛羽の声が聞こえた。低く、穏やかな声。何を言っているかは聞き取れない。だが、誰かに話しかけている。「大丈夫だ」と言っている気がする。

 二分後。

 耳鳴りが消えた。

 完全に。路地に静寂が戻った。遠くで電車の音。風が路地を抜ける音。自販機のコンプレッサー。日常の音だけが残った。

 飛羽が出てきた。

 顔色が悪かった。

 目の下に影ができていて、唇の色が薄い。コートの襟を直す手が、わずかに震えている。

「終わった」

「飛羽さん、大丈夫ですか」

「大丈夫だ。中の七人は全員起きた。配信は止まった。ハルカ、発信元のトレースは」

「やってる。使い捨てアカウントだから直接は辿れないけど、APIの呼び出しパターンに癖がある。同じ配信者が過去に別のアカウントで同じことやってないか調べてみる」

 飛羽はアパートの壁にもたれかかった。見たことのない姿だった。飛羽はいつも直立していた。無駄のない姿勢。それが今、壁に体を預けている。

「飛羽さん」

「触れるな」飛羽の声は鋭かった。だがすぐに、「すまん。少し抜けるのに時間がかかる」

「抜ける?」

「直接触れると、相手の同期の残りが、少し入る。物理的接触は最後の手段だと言っただろう。最後の手段には、コストがある」

 飛羽は目を閉じた。三十秒。目を開けたとき、顔色が少しだけ戻っていた。

「行くぞ。ブルー・ノートで報告をまとめる」

 三人で歩いた。飛羽が先頭。透が真ん中。ハルカが最後尾でノートパソコンを片手に歩いている。

 透は飛羽の背中を見ていた。

 この人は、毎回これをやっている。物理的に情報災害を止めて、そのたびに少しずつ何かを受け取って、壁にもたれて、三十秒で立ち直って、また歩く。

 魔法じゃない。物理法則だけで戦っている。だから、代償も物理的に来る。

「飛羽さん」

「何だ」

「……お疲れさまでした」

 飛羽は答えなかった。だが、歩く速度が少しだけ緩んだ。

 ブルー・ノートのドアが見えた。路地の奥。猫はいなかった。寒くなってきたから、どこかに入ったのかもしれない。